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「夏の祈り」

9月21日まで、渋谷UPLINKにて公開されていた、ドキュメンタリー映画「夏の祈り」を観て来ました。

21日、東京での千秋楽では、坂口監督の舞台挨拶があるということもあり、何を考えて、なぜ長崎だったのか、ということも思っていたので、それも聞きたくて最終日に行くことに。

夏の祈り公式Webサイト

以下、ネタバレも含みますので、これから観よう!と思っておられる方は、飛ばして下さい。




坂口監督が、恵みの丘長崎原爆ホームに向かうところから、このドキュメンタリーは始まりました。そしてそこから2年に渡る記録映画です。

淡々と、その「原爆ホーム」で暮らす老人たちの日常を記録していく中に、力強く「祈り」が感じられる作品になっていました。

主に取り上げられているのは、そのホームで暮らす女性3名。本多シズ子さん、村上ハルエさん、山口ソイ子さん。3人が3人、それぞれの被爆体験を、インタビューに答えて語ります。ですが、飽くまでこの映画では、その3人のエピソードと共に、取り巻く状況、人々や日常、その他被爆体験を持つ方のエピソード、そして今も続く「放射線の影響」の研究を淡々と切り取って行きます。

この長崎の原爆ホームは、純心聖母会というカトリックの修道会が経営しているため、そこここにカトリックの「祈り」の場面が挿入されます。長崎は今でも伝統的なカトリックの習慣の残る地です。「日本におけるカトリックの聖地」というナレーションが入っていましたが、というよりは「発祥の地」と言う方がしっくりは来ますが。もっと言うと、生活習慣として文化として受け入れられている地、と言えばいいでしょうか。なので、今はめったに見られなくなった、ミサでベールを被っている女性信徒の姿の多さには、聞いてはいましたがちょっと圧倒されました。浦上天主堂を埋め尽くす聖誕徹夜祭のミサの様子で、被っていない女性信徒の方が少ないのではないかと。今、東京カテドラルでこの様子は見られません。

そんな様子に圧倒され、「長崎はすごいなあ」と思う傍らで、淡々と切り取られている日常の中に織り込まれる祈りの風景があまりにも日常的であることにも、ふと気付きました。

「教会の祈り」と呼ばれる聖務日課が、普通に行われているようでした。

最初に登場する本多シズ子さんは、純心聖母会の孤児院で育っていて、その孤児院で被爆しました。両脚が動かず、左目も失明。そんな彼女が、朝の新聞の取り替えをする様子が始めに彼女の境遇の説明以外、何をしているのかの説明もなしに挿入されています。朝まだ暗いと思われる中、そうやって淡々と持ち分の仕事をこなしていきます。

その後、突然場面が切り替わり、お告げの祈りが始まります。手許にあるパンフレットの中には「聖母マリアの祈り」以外に書かれていませんが、「み言葉は人となり」「私たちのうちに住まわれた」という祈りが聞こえました。そうして、朝課が始まりました。

その後の本多さんの日常を、カメラは何の説明もなしにただ切り取り続けます。

その中に感じられたもの。それは、祈りに支えられる人の優しさでした。人に声をかけ、励まし、笑わせる。できることがあれば、手を出して手伝う。少ない場面の中に「ありがとう」という言葉が数回。

普通の「老人ホーム」の日常を映し出した後、何気なく、「被爆劇」へと話が移って行きます。

被爆劇:これは、この「原爆ホーム」に住む被爆者たちが、自らの体験を元に劇を作り、子どもたちにみせるために演じるものです。身体の動く方が、杖にすがって、介助者に支えられたりしながらですがその時の自分の体験を再現し、「平和学習」としてホームを訪問する子どもたちに見てもらおう、語り継いで行こう、という試みです。

練習場面も映りましたが、その時にはそれほどの衝撃を受けませんでした。

ノートルダム女学院の生徒たちが、観劇にやってきて、本番が始まった途端、一気に舞台の上に感情の火花が飛び散るような錯覚さえ覚えるほどの戦慄が走りました。劇自体はそれほど大きな仕掛けがされているわけではありません。でも、入居者の方の台詞はもはや台詞ではなく、60年以上、心の中で叫び続けて来た「あの日」の叫びが堰を切ったようにほとばしり出た「本物の」悲鳴でした。

「母ちゃん、母ちゃん、熱いよ、熱いよ。水ば下さい、水、水を...」

この叫びは、今でも頭の中でこだまします。

本物の叫び、だったからでしょう。気がついたら、涙があふれていました。
3人の女性が登場するごとに、この被爆劇が繰り返されます。それは、その人その人のその時その時の体験を私たちが劇を通して追体験するように、とのことだったのでしょうか。

そして、平和祈願祭。あちこちでの祈りが映されました。爆心地から近い、純心女子学園での慰霊祭のようすも映りました。浦上天主堂の「被爆マリア」。何度も目にする機会はありましたが、在りし日の寄木細工のマリア像を見たのは初めてでした。美しいマリア像。爆心地から500メートルのところにあった浦上天主堂は、文字通り吹き飛んでしまったのです。

被爆マリア
生協ひろしま/組合員活動/活動日記様より拝借)

かつての美しいマリアと、今の虚空を見つめるマリア像。

そんな一面が切り出されたかと思うと、突然現実に引き戻され、長崎病院の病理標本管理室の映像が映し出されました。ホルマリン漬けになっている、献体して下さった被爆者の方々の病理標本。亡くなって60年以上経っても、まだ放射線による傷が遺伝子から消えない。亡くなってもなお、放射線が亡くなった方の身体を蝕んでいる。その事実に、愕然とさせられました。生きている方は、それを思うといかばかりか。

それでも切り取られて行く日常の生活場面。そこには、普通の「老人ホームの生活」が映し出されます。

日常が、少しずつ日常ではないものになっていく感覚、と言えばいいのか。
そんな日常の中に織り込まれる「被爆」という現実。それを必死になって追求し、その人たちの「日常」を支える人の努力。その根底に流れる強い「想い」と平和への祈り。そんなたくさんの想いが重なり合って行きます。見るに堪えないほどの悲惨な映像もありました。でも「見てほしい」というその方の言葉に、勇気を出して、顔を上げました。

爆風による被害。ガラスの破片。たくさんの想いが、ずっしりとのしかかってきていた時、寺嶋しのぶさんのナレーションで、「長崎で歌い継がれているカトリック聖歌があります。」と始まり、耳に入ったのは、聞き覚えのある歌。

み母マリア。

カルメルの黙想会でも終課(寝る前の祈り)の後歌いました。優しく、毅然と聖母マリアへの献身を誓う歌です。純心女子の学生やシスターたちが、歌いながら、亡くなっていった歌。江戸時代の殉教者たちは、アヴェマリアや、サルヴェ・レジーナを歌いながら、殉教への道を歩んでいったと言われます。また、ハイファのカルメル会士も、ちょうど晩課の終わりにサルヴェを歌っている時に、襲われ、歌いながら斬られていったとも。

それを聞いていただけに、この歌は、心の深くに沁み透りました。

入居者の朝ミサの風景に場面が転じても、この歌が頭を離れませんでした。

この後、村上ハルエさんのエピソード、山口ソイ子さんのエピソードもついで紹介されます。
被爆劇の様子も流されました。

その時。
その被爆劇で、「母ちゃん、熱いよ、水、水ばください」と舞台上で演技している方を見ながら、袖に控えていらっしゃる方々が、うん、うん、と頷いているのが目に入りました。

...なんだったんだろう、あれは。その時の自分が重なったのでしょうか。

平和祈願祭の様子が再び映され、職員の方が被爆者の方のメッセージを読み上げます。涙を抑えられない方。目を閉じて祈る方。ロザリオを握りしめる方。

多くの人たちの言葉と、祈り。

平和、ただ言葉にすれば簡単だけれども、本当に難しいことです。心の平和があって初めて世界を平和にすることが出来る。「私は私の平和をあなた方に遺し、私の平和をあなた方に伝える。」ミサの「平和の挨拶」の前の言葉です。「主の平和」と私たちはミサで、周りの方々と言葉を交わします。でもおざなりになっていないか。思わず自分を振り返りました。

映画の中の時は巡り、生誕劇(パジェント)が行われ、生誕ミサが繰り返されました。長崎の夜景に「日常」が再び甦ります。

本多さんが、配達された新聞を朝、取り込んで施設内に配るところから始まったこのドキュメンタリーは、彼女が最後「おやすみなさい」と、寝る前の祈りを唱えるところで終ります。

長崎湾を見下ろして、み母マリアの賛歌が響き、終りました。

全編通して感じられるのは、生きる力、平和への祈り、力強い、根底に流れるその祈り。日常の中で自分の体験を、大きなものとして知りながらそれを「生きる」、それを己の宿命として後世に継いでいく、平和のバトンを渡していこうとするその意志。そしてそれを捉える優しい眼差し。

貫かれる祈りと、自分自身を思わず振り返らされる、そんな祈り。

苦しみの中に在っても、悲しみの中にあっても、生きるための祈り。そしてその祈りの発露としての日常。

自分の祈りを見つめ直すことにもなりました。

最後に、み母マリアを。

み母マリア 身も心も
とこしなえに ささげまつる
朝な夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる
み恵みこそは きよき慰め
輝かしき 君が冠(かむり)
うるわしき 君が笑まい
ああ 我ら深く 慕いまつる

み母マリア この汚れし
我らの身を 清めたまえ
この憂世を 暫し避けて
とわの栄え 仰ぎまつる
花咲き匂う 天のみ国へ
たどる道を 照らしたまえ
いまわにも み恵みもて
罪ある この身を 守りたまえ



  1. 2012/09/22(土) 21:38:40|
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本当に大切なもの。

島で見つけた私。

くしゃくしゃの顔で笑ってました。
周りを気にせず、大声で笑ったり喋ったり、泣いたりもしました。
誰も気にせず誰にも気にされず。

初めて会うはずのパラジ(親戚)の前で私は、何時よりも素直に
おおらかに笑って、悔しがって、一瞬一瞬を大切に生きました。
これが私の姿なんだ。って。

私にとって一番大切なものって何だろうか。

渡海や隔じゃみてぃん 照る月や一ち 彼方ん眺みゆら 今宵ぬ空や

あの島のあの風とあの海のあの波。
HomeがあるからAwayで闘えるのか。
でもどれだけ離れていられるだろうか。

置いて来た心の欠片が、泣いている気がします。

  1. 2012/09/13(木) 22:03:52|
  2. 想い|
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南洋浜千鳥節

旅や浜宿ぃ 草の葉の枕 寝てぃん忘ららん 我家ぬ御側
旅宿ぬ寝覚み 枕側立てぃてぃ 思び出すさ昔 夜半の辛さ
渡海や隔じゃみてぃん 照月や一ち 此方ん眺みゆら 今宵ぬ空や
柴木植いてぃうかば しばしばといもり 真竹植いてぃうかば またんいもり

今日、先生が、「気合いが入ったね」と来ました。

分かるからかね。やっぱり。

  1. 2012/09/06(木) 21:29:08|
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わーちゃぱーぱーぬ欠片:おばあちゃんの欠片

与論へ行っていて、今さっき帰京しました。「帰郷」ではなく。

那覇経由で、29日旧盆直前に空から入って、ものすごく忙しい(笑)数日間を過ごしました。

自分がゆんぬんちゅであることを、これほど有り難い「当たり前」の中で感じることが出来たのは生まれて初めてでした。今までどこに行ってもホームシックにならなかったわけが、ようやく分かりました。

これからはずっとホームシックです。帰るまで。

不思議なことがありました。

祖母の形見の指輪をつけて最後数日島を回りました。
祖母が回ったであろう場所。私に見せたかった百合ヶ浜、赤崎海岸、寺崎海岸、フバマ。城地区。
私にとってのたったひとつの形ある祖母の形見でした。だからこそ、
「おばあちゃん、帰って来たよ。」と。祖父方の親戚筋回りも、つけて行きました。

それについていた石が、まさに与論を離れるために乗船する前に、落ちていました。
そんなに簡単に落ちるような構造になっていないはずなのに。
今までどんなにつけても落ちることは無かったのに。

祖母が、帰りたかったんだと思います。
そして私の心の欠片も、置いて来たんだと思うのです。

お帰り、おばあちゃん。心の中で、そう呟いて、
「私の心もここにおばあちゃんの石と一緒に置いて行くから。
 また、いだ きゅんどー」と、心の中で声をかけて、船に乗りました。

むーる、はみんしゃい。
わーちゃ ゆんぬ、わーちゃ ゆんぬ ぬ ぴとぅぬ美らさよ。

今はただ、空を見上げて泣くばかり、です。
おばあちゃんを与論に帰してあげられて良かった。


  1. 2012/09/05(水) 02:56:56|
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独り言。

ようやく色々な数値の安定し始めたこのごろ。
浮腫も、以前に比べて治まるのが速くなって来たし、いわゆる自律神経失調症みたいな症状も治まり、
肝機能が復調して来た、ということが自覚としても出て来た。助かる。
疲れの取れ方は薬の副作用もあってイマイチなところもあるけれども、それでも、以前に比べて、
長時間の移動+シャトル的な作業も割と無理なくこなせるようになってきている。

時間を取って、という作業になると、未だに疲れが出るのが早い。
ここは、資料はフォトリで乗り越えて行こう。と、思う。
大丈夫。私には、色々使えるものがあるはずだ。

問題は...(笑)キャッチボールをする相手が少ないことだな。

でも。きっと大丈夫だと思う。
だって、根拠の無い自信ほど強いものは無いから。

顔を上げて、空を見上げて。

あの日見たガリラヤ湖を、いつまでも、心に。

ようやくここまで来た。動かない身体。悲鳴を上げていた内側の傷み。
ごめんね、私の身体。こんなに苛めてしまって。

健康であることって、本当に大事なことなのだ。
そう、思う。

うん。
大丈夫。笑顔でまた、突っ走れそうだ。

  1. 2012/08/22(水) 22:00:04|
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バッチフラワー、レベル2への下ごしらえ開始。

バッチフラワーレメディのInternational Education Course Level 1の資格をとってから2年近く経つ。

人は勝手なもので、とってすぐは取った!ということに浮かれてしまって使わなかったりしたものだ。しかも自分がどん底の時に使えば良いのに、日頃からその習慣をつけていないと、とっとと忘れてしまう(苦笑)まったく厄介な...。

昨日イギリス時代の親友と一昨年の末くらいぶりかな?に会い、話をした時に、バッチの話が出て、頭が急速回転し始めた。今になってみると昨年10月の時点で色々対策はできたはず+きちんとJudgeできていなかったことで、レメディが効かなかったということが分かって思い切り自分に苦笑してしまった。

レベル1の内容をもう1度見直して、レベル2にApplyする準備をしよう。レベル1からレベル2取得の間には2ヶ月のインターバルを置くことが規則になっている。これは、自分で実証実験し、よりレメディの選択について学ぶためのものだ。ということで、早速昨日久々にトリートメントボトルを作ってみた。

本来7種類まで入れて良いものだが、多ければ多いほど、深読みし過ぎ、ということになる。
今回は4種。しかも今まで入れたことが無いものが含まれた。

さて、この経過を観察しながらきちんと合ったレメディを選べているかも含めて、検討。ちょっと楽しみだったりもする。

バッチは「病気の治癒」ではなく「心身のバランス」を重視する。その結果が病気の治癒に繋がる、というだけだ。実際のCase Studyがレベル3では要求される。プラクティショナーになる道はまだまだ遠い(苦笑)レベル3まで行ったら、英語で受けるか。と今からわくわく。

  1. 2012/08/19(日) 10:48:01|
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収穫の秋に、来た道筋を思い直して備忘録。

オリンピック。London。

マラソンコースを見ながら、見慣れた町の見慣れた風景が目に飛び込んでくるのを不思議な気持ちで見つめていた。Cityに入った時や、St. Paul'sを見ながら、航空写真を見ながら。自分の住んでいた寮は閉鎖された。それでもあそこはまだ自分にとって、2年過ごした大事な場所だ。

そろそろ色々な不具合が起きて1年以上が経つ。去年の今頃は発症初期の症状に気付きながら無理をして頭に色々なことを叩き込んで来た。自分なりの立ち位置、と言うものがまだ確立できていなかった。つーか、あの状態でできるはずがない(笑)

開発コンサル、という仕事は不思議な仕事だ。他の国では知らないが、日本では不思議な仕事だと思う。

それはひとえにコンサルタントが「高度な専門性と、適度な広がりをもった専門家集団」でなくなりつつあるからだろうと思う。だが、単なる「専門家」というのもコンサルタントにはなり得ない。コンサルティングとは何か、を根本的に自分で考えて、それを実践できるようにならない限り。

なぜそうなったのか。そして、そこから「どこへ」向かいたいか、そして「どう」向かって行くか。それをいわゆる「クライアント」と共に考え、時に助け舟を出し、時に彼等の知恵を借り、練り上げる未来。それがただの「開発」ではなくDevelopmentという自発的、内発的なものも、それから外からの刺激というものに対応することもできる柔軟さも兼ね備えたものを通じて、Amartya Sen言うところの「Feedom」へと向かうツールへとして行くその力。

教育、というフィルターから「人材を育成する」という部分に自分がシフトした時のことを思う。

教育は大事だ。当たり前だが。この「教育」というツールの使い方ひとつで国を変えることも可能だ。だから私はEducationに焦点を当ててこの柱をメインに走って来た。が、教育、は「育む」ことでもある。識字教育プロジェクトに関わり、地方で聞き取りをしながら、女性たちが何を思ってこの識字教室に通って来ているのかを考えていた。自分の子どものため、という人もいたし、旦那さんから言われて、という人もいた。

はっきり言ってレベルは思い切り低い。STEPのフェーズ2の時にマザリシャリフやジャララバードを視察に行ったときに、教員用指導書を使っている教師といない教師で格段の差があった。実際に思うように使えていなかったとしても使っている教員と使っていない教員ではその内容に既に違いがあった。それは、言葉がわからなくても見ているこちらがいわゆる授業計画を目で見て、観察して、取れるか。目的を持って授業をしているか、それが明らかかどうかの一言に尽きる。が、識字教室の場合そんなものはないし相手は成人が多い。

じゃあそこでなぜ字を教えるのか。読み書き計算をさせるのか。

人は財産なのだ。かけがえの無い、一番大事な国の宝。人のために国が存在しても、国のために人は存在しない。

そこを取り違えてはいけない。
そう考えたとき、ただEducationに凝り固まっていた自分が、変わった気がする。「国のために」、と言うのではなく「自分の愛する国をより良くするために」支える人材が必要だ。愛する国とは自分の大事な人が守られる国だ。だからこそ、「国を良くして行く」という考えが大切だし、そのためにどんな国づくりをして行くのかを考えて行くことが大切になる。そしてそこには教育も欠かせない。そのための教育を考えられる人材を作る必要も、ある。

今の日本もそうだが、公務員の給与をカットしたり不要なほど低く抑える、これはどうなのか。疑問が大きい。特に被援助国ではこれからの国の未来を支え得る人材がいわゆる国際組織に流れて行く。各援助国はより良い人材の確保にやっきになっている。法外な月収で。これは、その国に対するNeo-colonialismを助長することになりはしないか。しかも長期にわたるプロジェクトだと、彼等はそのプロジェクトに依存し、その後の未来において、彼等自身の生活水準の基準が変わって来はしないか。当たり前だが彼等が公務員になろうというモチベーションはない。現状を知っているから、援助機関に現地スタッフとして雇われた方が楽だからだ。

...矛盾していないか。

この矛盾を責任を持って受け止めて、最後に自分たちが失業することを目指してコンサルティングをする。Exit Strategyを持ってSustainabilityを考慮してすべてのプロジェクトを実施していくことができなければいけない。理想だが。

長く一緒に働いているスタッフを育成しながら、思うのだ。
この子が、この子たちが、いつかこの国を支える人になってくれますように。

だから、就業時間外の進路相談にものってしまうのかもしれないが(笑)

「教育」この言葉は諸刃の剣だ。その国の置かれた状況、国際社会の中での位置づけ、立ち位置、そして狙いたい長期スパンでの国づくり。これをセンが言うところの自由、へ向かわせるDevelopment。ここへ持って行くための人という力へ注力する。これはどの分野でも。

まあよくも、思うことをただ徒然と書いたものだ(苦笑)と思うが。備忘録なので良しとして。

ホレブの山から下りたエリヤはその命尽きるまで、自分の召し出しに忠実に生きる。エリシャという後継者を得て、7,000人のイスラエルの民を残されて、託されて。

私はまだそこにまですら至っていないが、さて。どう歩いて行こうか。
「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」。
この声の聞こえる限り、私は自分の選択に悔いることはないだろう。荒れ野だろうと、オアシスだろうと、同じだ。

  1. 2012/08/08(水) 09:48:52|
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神戸へ行って来た。

大学院時代、つまりイギリス時代からお世話になっている同業の大先輩、私にとってはメンターのような存在の方が、面白そうな会合に招かれていることを知り「面白そうですね〜」と反応したら、そこから「では、来ませんか?」から始まってしまった。

神戸(汗)

うーん、っと...。うん、いや、フィリピンよりは、近いよな。

海外の移動は慣れているのだが、なぜか国内移動に慣れていない私(汗)
海外への移動は割と即決できるのだが、なぜか国内移動になると躊躇する私(汗)
言葉通じるのに...って問題はそこじゃない(汗)

人見知り根性丸出しです。誰に言っても信じてもらえんがな。
言葉が通じるからこそひとつひとつの言葉を大事にするとコミュニケーションがえらいことになる。それが原因で隠れ人見知りです。しかも、とある大学院でやっている集中講義にも来いとのこと。
この方は、ある意味非常に温かいが、さめた部分も併せ持つ非常にユニークな方。即断即決、行動力の塊のような方であることは間違いない。非常に「引っ張る」強さを持っていらっしゃる方だが、人を見る。私の場合、正面対決していただけるのは非常に面白いと想えるタイプなので、私が自分のロジックが通らなくても割と凹まない希有な相手。

私が昨年倒れて緊急帰国する前、様子を察知して何とかならないか、気にかけて下さった方でもある。そして帰国後、起き上がれるようになって、家族以外で初めて「会いたい」と近場まで訪ねて下さった方だ。過労でぼろぼろになっていた私を見ても、心身共に持ち直すのを、ただ黙って信じて待っていてくださった。今回、その時のことをちょっと話す機会があった時、「酷くありませんでした?」と聞くと、きわめてクールに「いや、芯はそのままでしたよ。どうなっていようと、あなたはあなたです。僕はそこを見間違いませんから。」泣くかと思った。

ちょっと前にごたごたと身内であったため、取り敢えず直前まで保留、と言うことにさせてもらった。が、前日そのごたごたにもようやく一段落がつき、ものは試し、と一念発起。

朝から東京駅に向かう電車が止まるわなんだわで、午後1番で着くかどうか、と言う状況の中出かけた。なぜかバティックのワンピースと言う、意味不明な格好で(笑)

向かいながら一番苦手な産業経済の本をフォトリする。...活性化は後回し。

講義棟へ向かい、エレベーターが来るのを待っていた。開くと...中からSave the Children Japan時代の同僚(というのか?)が出て来た(笑)かれこれ数年ぶりにワシントンで再会して以来、その数年後にようやく比較教育学会で再会、そしてなぜまたここで、と、笑うしか無いタイミングで再会。ひとしきりそこでしゃべっていると、メンター、I氏の姿が。なんと、2人とも互いがこの大学に在籍していることを知らなかったと言う(笑)世界は狭いようで視野が狭いだけなのかもしれないと、自分も振り返って想う。

そして、聴講する講義へ。と、そこでいきなり恒例の1分間自己紹介を振られる(笑)来るかとは想ったが来たか。と、30秒超かな、と思われるタイミングで。後で聞いたら47秒だったそうだ(笑)

スライドはやはりいつもの通りだが、いつも手が加えられているのをこの数年感じる。聞きながら、自分の頭の中がようやくこの業界のモードにシフトされていることを思い知る。ああ、やっぱりホレブの山を下りる時期だったんだなと、軽く苦笑しながら自分を振り返る。氏のスライドはFriday Worldの頃から核は変わらないが、手が加わりより丁寧になっている。ということは、そうする必要があると言うことか?日本の大学院の教育はどうなってるんだ?と思う。2年あるのに、実践に近いことはされないのか。イギリスはTheoreticalな側面を大事にする反面、実践は、「すでに経験がある」ことが前提なため、Methodologyはそこまで掘り下げられないが、その重要性については嫌というほど指導教官から突っ込まれる。従って、やっていない所謂新卒の学生や、研究経験のない学生は必死になって学ぶしか無い。その中、Pat Pridmoreは参加型アプローチのプロジェクトについて非常に実践的な講義だった。お陰で、という言い方もおかしいかもしれないが、PDMを見ても全然戸惑わなかったし、PCMなんて、割と普通に取り込んだ。このままでは、結局、比較教育学会で感じたことがそのままだ。アカデミアと現場のギャップはますます広がる。

これを「どうしたら解決できるのか」を考えられる専門家が減り、
コンサルは「コンサルティング」ができないロジ屋が増えて行く。

これは、泉ちゃんとも危惧していること。私は現場に身を置き、彼女はアカデミアにいる。そのうち、じっくり話し合いたい内容だ。本当の意味で言うなら、ここに産学連携が必要だ。と声を大にして言いたい。

各Working Groupを回った。アフガンのCorruption/ベトナムのHigher Education/スリランカのIndustrious Dev't.。各々テーマは、軽く実務家から見れば突っ込みどころ満載だ。アフガンのCorruptionについては、イスラエルをやるには日本人は宗教的バックグラウンドの「理解」が足りないので、アフガンで正解だろうが、Corruptionを正確に定義できていない。何を持ってCorruptionというのか。そこの定義が出来ない限り、プロジェクトなんてできやしない。ベトナムのHEは、なんで「ベトナムだったのか」が希薄だった。正直ラオスでやってほしかったな。難しいと思うけれど。本来の意味での社会主義の中での教育という意味を考えると。ま、資料は少ない。だからこそ独創性が試されるのだが。スリランカ組は、見ていていわゆる、Project Purposeから、Objectives, Outputsに降りて来る時点で、Instrumentsの捉え方にずれが見られたが(敢えて指摘せず)。流れとして捉えられていることは間違いない。Goalが大風呂敷で面白かった。Objectivesをどれだけ絞れたかが鍵になるな、と見る。

日本人の大学院生たちは、いわゆる業界の「用語」が出てくることが多い。それの「このContextの定義」を十分決めていられない、描けていない部分で。研究方面の思考なんだな。実践になると、何がリスクか、それを回避するにはどうするか、問題点は何か、それをクリアするにはどうするか。もっとDown to the Earthなことを求められて行く。今すぐに身につけろ、とは言えないがこのコースで少しなりとも考えられる切っ掛けとなったらと思う。

正直、UN系のインターン、しかもいわゆる現地事務所ではないHQや、いわゆるRegional Officeに当たるところでの業務は現場に出さないし、数字をいじらせる仕事が多い。それよりももっとプロジェクトの現地に入ること、かなりな頻度で行くこと、それをしないと実践が出来るようになって行かない。この子たちが卒業後どういう道に進むつもりなのか。それも凄く気になるところだった。

国際協力、という言い方も色々賛否両論だ。「共存」という言い方が強者にしかできない言い方であるのと同様「協力」についても「支援」を都合良く言い換えているだけだろう、という問いは常に頭を離れない。Development、は「開発」ではない。内的発展を包含するものだ。そこにどれだけの子たちが気付いているか。たかだか30そこそこの自分たち(現場に入る時)が、人生の大先輩方に、ただ「日本人」なだけで頭を下げられるその「責任」を受け取っているか。想像できるだろうか。そこで「専門家でござい」という奢った考えで現地に入るようではこの業界に居る資格は無い。それが私の持論だ。

答えは飽くまで彼等の中にある。問題意識も彼等の中にある。コンサルティングとは、そこを具体的にし、彼等の感じる限界を自分の持つものでぶち破る手掛かりを与えることができる「可能性」を持って行うもの。そして彼等の行きたい方向を共に「同胞として」、同時にある距離を持って模索し、彼等が続けて行くことの出来る形で実現して行くことだ。だから専門知識としての「理論」と、現実を見つめ、そこを捉える「現場の勘」を磨いて行く必要があり、さらに「柔軟性」が求められて行く。

インテンシブな4時間...だったが、自分の中で色々なことがきちんと回り始めていることを確認できた日でもあった。体力が戻って、無理に眠らせて来た部分が熟成すれば、戻れる自信も出た。ま、後は身体だわな。今回は泊まることを断念した。翌日は倒れることが容易に想像ついたので。案の定翌日はぐったりだった。

そして。

神戸。あの日のことを忘れることは無いだろう。あの日の母の背中も。
帰宅しながら、一通のメールを、岩手へ向けて打った。

忘れまい。
あの活気を。

さて、そろそろ産業経済を、考えましょう。
フォトリの活性化も、した方が良さそうだな。

  1. 2012/08/06(月) 22:07:27|
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ホスチアに留まられる、愛おしい方

この数日、症状の思わしくない日が続いています。疲れと、黙想会と日常生活のギャップ。
多分、そんなところでしょう。悪化しているはずはないのですし。
黙想会(14〜16)の間にも、突然身体の力が抜けて、転んだことが何度か。
けれども黙想会の最後、親友2人と神父様に見守られて、素晴らしい恵みに与りました。
その恵みを、守り通すためにも、生まれ変わらなければ。

でも。私とは、なぜこんなにも弱く、悲しいまでに惨めな存在なのだろう。

だからこそ、そこでくじけることはならぬこと。
秘跡に与りたい。けれどもこの身体が言うことを聞きません。
悲しいことですが、それでも、それだからこそ、この心だけでも
私たちへの愛のために、私たちの肉になるために
食べ物として、ホスチアに留まられる愛おしい方のもとへと飛んで行きたい。


  1. 2012/07/22(日) 09:45:28|
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ホレブの山より

ホレブの山から下りて、元来た道を引き返す時が近づいて来たようです。

どこに属さなくても良い。
主に属するのであれば。

カルメルの霊性は私とともにあり、
テレーズは私がこの島流しの地で過ごすこの生涯、私の手を取って導き続けて下さる。
母テレジアも娘テレーズの働きを助けるよう、守って下さる。
父十字架の聖ヨハネも、通られたその「暗夜」を私に示し、
行くべき道を照らして下さる。

ならば、禁域の中でなくとも。
「形」によって繋がっていなくても。

私は、母テレジアの召し出しと、私の愛するテレーズの召し出しを、
私のものとして生きていきます。

主に感謝。

  1. 2012/07/07(土) 21:08:24|
  2. 祈りとともに|
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