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アフガニスタンへの祈り。

色々な事が、心を駆け巡る。

コーラン消却事件といい、今回のカンダハールでの乱射事件といい。

アフガンに関わり始めた2007年1月。そこから、心がアフガニスタンからはなれる事はなかった。

愛する国。私の誇り。私の「古き良きアフガニスタンを知っている人が生きているうちに、またThe Kite Runneの美しいカブールを取り戻したい」という願いは、届かないのだろうか。

初赴任直後任された、サイードジャマルディン教育大学の実験校の実態調査。持って帰った情報は、N大の先生方から「さすがIOE出身」と褒められた(笑)スタッフたちとはインド映画好きにしか分からない話題が溢れた。Kabhi Alvida Naa Kehena(さようならは言わないで)を、Hameedが別れ際「これから岡本さんは「Kabhi Alvida Kehena」なんだね」と言った。最初、隣で「ど」緊張していたRafiが、Faanaの曲を使って「Kadaksing」の隠喩で二人で笑った。それはちょっとずつ広まって行った。Rafiが「どういたしまして」を最後まで言えず、「どういたしました」になるので「て」を強調していたら、そのうち、それがジョークになって、「どういたしまし「て!」」と言うようになった。Sulaimanが、私が好きな映画のVCDを必死になって探して来た。Ya Aliを歌った。Tuhi Meri Shab Haiを歌った。Pretty WomanをSRKバージョンで歌い、私だけが車に乗っているとなぜか、Bollywoodの歌が流れた。私のChanda Chamkeには、誰もついて来れなかった(笑)仕事になると、みんな目が変わる。このTeachers' Guideが、アフガニスタンの教師の未来を変える「かもしれない」から。ダリ語、パシュトゥン語。スンニ派、シーア派。新しいカリキュラムの把握、教科書の入手、教育手法の検討。頭の中は痛い(苦笑)けど、それ以外のところでも、たくさん話をした。Rafiは帰るとき、そっと共有しているランプを私の方に向けて「仕事し過ぎないで」と、一言声をかけてくれて帰る。離れている間も、馬鹿ジョークを言い合い、ずっと思って来た。1万人の小学校教員が、その年、TGの研修を受けた。

2度目に入ったのは、3年後だった。そのとき、誰かがDekho Naaを携帯の着信にしてて、Hameedだった。奥さんからの電話は、Dakho Naa。と思ったらどこかでMitwaが流れていた(笑)全部Kabhi Alvida Naa Kehena。KANKは、なぜか3年遅れでうちのオフィスで流行っていた(笑)因に私の携帯の着信音は、Nancy Ajuram(レバノン歌手)だった(笑)なんだ、そのギャップ(笑)Farhadは相変わらずきざだったし、無口だったZiaはパパになり、なんだか雄弁になってもいた。新しいスタッフもたくさんいた。でも、みんな同じ弟のような存在だった。公私混同はしないし、仕事には思い切り厳しい姿勢でいかないと、ただでさえ3倍くらいの時間が何をするにもかかる国。でも、交わす会話が楽しかった。Naserが突然、「おちゃいかがですか?」って日本語で聞いて来たり、みんなで仕事後バレーボールしたり。どこの土方のおっさんやねん、ってくらいみんながランニングになって走り回るのが、楽しかった。

そこからどんどんアフガンに入る事が増え、長期になり。
プロジェクトを掛け持つようにもなり、地方にも3回行った。なぜかどこでもアフガン人(ハザラ人)扱いされた(笑)。女性、未婚、まだ「若い」(え?)。不利な条件の中、必死に頑張った。Team Mazar、マザリへ2週間一緒に行った5人は、私がマザリの事務所を「朝6時から夕方6時まで使わせて下さい」と言った瞬間、凍った(笑)それから「6 to 6(シャシュ to シャシュ)」が合い言葉になった。でも、誰も一言も文句を言わなかった。笑いと、根性と、「若さ」で乗り切った。Hameedの身に危険が迫ったこともあった。現場判断で退去、プロマネには事後報告だったけれど、それで正解だった。行くところ行くところで、Phase 1で作ったTGを活用している教員としていない教員の授業を、一気に見てその場で、彼女らの「授業計画」を分析、書き上げるところまでやっていった。その結果プロジェクト今までの成果も、問題点も、「教育専門家」としての視点から見る事が出来る自分に、「まだ大丈夫だ」と自信を持った出張でもあった。「評価の観点がどこにあるかが、分かって教えているか」。TGが実際に生徒の理解度に、貢献している、と感じた、本当に感動する瞬間だった。安全だからと武装警護なし。どこで何が起きてもおかしくない中の仕事。北部は安全とは言え、3年の間に、カブールは空港を出てから感じる空気が違うことが分かるほど変わっていたから、緊張もしていた。5人の結束と、バックアップは、心強かった。Phase 1から共にしているジョーク相手でもあるRafiは、チームリーダーとして最年長ではないのに全員を引っ張った。時には5時半に事務所に来てくれる事もあった。「リーダーは、他の誰よりも働かなければならない。それが他の仲間を励ます事になる。まいてさんは俺らの誰よりも早く来て、誰よりも遅くまでいる。だったらアフガンのチームの中で、俺は誰よりも、まいてさんに続かなければならない」二人になったとき、彼はきっぱりそう言いきった。Naserは「お茶汲み」から始まったのに、英語の理解力は劣るものの、誰よりも細かく走り回った。テストの採点も、ビデオ撮影も。他の仲間から、時には「お茶汲み」扱いされても、文句のひとつも言わなかった。誰よりも寡黙だけれど、ビデオ撮影では、誰よりも私の意図を言葉ではなく、心で読み取った。Hameedは、自分のプライドを私に折られても、チームを想い、文句を言わなかった。そして、バックアップにしっかり徹した。最後の最後まで、ビデオカメラを担ぎ、自分の力を発揮した。命がけの仕事も、こなした。Safiも、静かにけれどもチームをしっかりとサポートし続けた。Naserに指示を出し、自分の分だけでなく、人のものも見た。Omidは、最後の最後まで自分のMissionを追求し続けた。粘り強く、どこまでも、追い続けた。何度も州教育局へ足を運び、そして、必要な情報を私たちは、得る事が出来た。今まで、こんなにはっきりと書類の形で得る事が出来なかったものを、しっかり手に入れた。Afghan Name, Maquboulaという名前もこの時つけられた。行く先々で、女性教員たちと、「男はダメよね~」とか、Lady's talkで盛り上がったりもした。そして、tiki tikiも(笑)。

美しいブルーモスク。シーア派の聖地、アリーの眠る地。
ブルーモスク

今や、北部も危なくなっている。

そして、その後もマザリへ別のプロジェクトで、冬に戻ったりもした。「成人識字」教育の中で、何が必要で、喜ばれる事なのか。「SMSが打てるようになった!」を聞いた瞬間、びっくりしたりもした。考えても見た事が無かったから。私たちの常識は、紙の上のものだったのだと、思う事も多かった。いわゆる「機能的識字」は今はあまり議論されないが、現場ではそれが必要なのだとも痛感した。同時に、「機能的とは何か」をも、考えなければならないと、深く、深く思った。SMSが打てる。考えた事も無かった。

公衆衛生のプロジェクトで入るようになってからは、現場に行くのに武装警護が必要になって行った。見た目にも、ホルスターを持ったいかついSPがついていると目立つ。良いのか悪いのか分からないまま、各保健所を回った。設備の酷さ、検査の装備のひどさ。結核の検査キットは使用期限が過ぎていたし、DOTSもちゃんとされていなかったり、主要な薬が揃っていないところ、保管が適切でないところ。これを整備して行くのか、と思ったら気が遠くなりそうだった。新しい仲間と、新しいプロジェクトへ。心機一転しなければならない中、目が回りそうなほど、道は遠く思えた。

政治的な介入、選挙直前だということ。状況は日々二転三転。
でも、5年の人脈は、伊達じゃなかった。義理人情に熱い日本人と同じく、国営教育テレビの局長が、ちゃんと助けてくれた。苦しいとき、繋がっていた人たちが手を差し伸べてくれた。人と人の間で苦しみながらも周りはにわかプロマネ代理の私を、支え続け、守り立て続けてくれた。古い仲間にも幸い再会し、教育省ではダリ語が必要だったために学んだダリ語が保健省で喜ばれた。苦しかった。倒れる訳に行かず、今まで考えた事が無い位、働いた。ラオスのプロジェクトでは、パートナーが幸い近くにいたけれど、今回は独りだった。苦しかった。何度も倒れそうになり崩れそうになりながら必死でドナー調整を続けていた。

3.11が起きた。足元から、がらがらと、気力が萎えて行った。翌日出勤し、Madar Janが抱きしめてくれた。Didi jiが、私を見つめた。Mati shahibが声をかけようとしてくれた。私は、立っていられなかった。先輩も同じだった。

でも会議があった。この国のためにここに来た。全うしない訳に行かなかった。全員が、私たちが「ふり」をしていることを知っていた。敢えて、触れずに。ただ、出窓に座り、地べたに座り込む私を、全員が、待ち続けてくれた。立ち上がるのを。立ち上がり、会議に出て行く私をNasirさんも、Didi jiも、一緒に行きながら、支え続けてくれた。今、ここを乗り越えなければ。みんなの力が、私を守った。

日本で、理不尽に叱咤されても、正しい事をした、と思えたのはあの時があったからだ。

6月。地質調査と測量なんて仕事をしに戻った。訳分かんなかった。にわか仕込みのエンジニアとして、サポートとして戻った。葛藤するばかりで、でも、5年間共にし続けたLatifを育て上げるつもりで臨んだ。彼は、大きく成長した。私がいなくても大丈夫だと思うくらいに彼は、必死について来た。私も必死に未知の領域に挑んだ。いつもより危険の多いミッションだったけれど、そんなの、どうでも良かった。

病を得て、日本に戻った時、最初にメールをくれたのは、アフガンのスタッフたちだった。

優しく、強く、逞しく、朗らかな明るさに溢れた、私の弟、私のお兄ちゃん、お姉ちゃん、お母さん。彼の地で起きる事が、彼らのその魂を傷つける。善良な人々は多く、アフガンに善かれと思ってくる人も多い。でも入り過ぎて、横の繋がりが取れず、パズルがきちんとはまっていかないことも多い。けれど大多数の人たちは、今までどこで出会った人たちよりも、この国のために、身銭を削って、命の危険を冒して入って来る。

ドバイからの飛行機で、大概軍人たちと一緒になる。若い子たちの多さに、驚かされる。私たちのミッションより過酷な「最前線」での「戦地」での闘いが彼らには待っている。耐えて行かれるんだろうか。いつもそう思う。ジャララに降りた時、そこは「基地」の中だった。2回目のマザリから帰る時は、様相が変わっていた。行くたびに、治安は悪くなっている事を肌で感じる。

善意で入って来る人たちが、ほんの一握りの人の起こす不祥事で、一気に憎悪の対象になる。
そして、今、カルザイ政権樹立から10年以上が経ち、また米軍の介入から10年が経つ。

人々の期待は裏切られ、悲しみと、怒りが、行き場の無い渦を巻いている。

私の愛する兄弟たちが、般若の形相になって行く事を想像するだけで、心の底から悲しみが湧き上がる。多くの子たちが、自分の生まれる前の、古き良き美しきアフガニスタンを知らない。ソ連侵攻以降30年、祖国は荒廃し、弾痕が今なお市街地に残る。パシュトゥンが支配し、ハザラが召使いとしてまた使われるのが良いとは言わない。だが、Shar-e-Naw公園で、6日後に来るアフガン新年に、戦凧は見られない。The Kite Runnerで描かれていた、凧揚げの光景は、今や昔のものになってしまった。けれどもその祖国を取り戻したいと、彼らは難民キャンプから戻って来た。

その愛を、憎しみに変えるような出来事が、多発し続けている。

あの私を支え、守り続けてくれた彼らが、憎しみに目を光らせ、復讐の鬼と化す事がないよう、祈る事しか出来ない。そんなことになったら、私の心は、裂けてしまう。

戦地でありながら、戦闘機が飛ぶ中でありながら、子どもは無邪気に笑い、遊んでいた。1教室に70人がすし詰めになりながら、必死で学んでいた。3月21日に、新年が来る。自分勝手に攻撃を始め、自分勝手に引いて行く他国の民に言う言葉は無いが、その中の多くの人たちが、善意の人であった事を、信じてほしい。

人が、人たる所以。戦争の狂気に、私の兄弟たちが飲み込まれないように。そこに希望が生まれるのだ。そこに、希望の種が、蒔かれるのだ。収穫の時、刈り取る人が少ないのでは困る。だから踏みとどまり、種をまき続け、実りを待ってほしいのだ。祈り続ける。いつまでも、どこまでも、この心の生きている限り。
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  1. 2012/03/15(木) 23:42:52|
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