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それがどんな道であれ、召し出されれば、それが道。

今、心身ともに休養、ということと四旬節、ということもあり、色々思い巡らす日々を送っています。

一昨日、スライヤと話した「日本のベリーダンス界はどこへ行くのだろう」ということも然り。本場エジプトのベリーダンスを伝え、そしてそれを追求し、肉として、己なりに磨いて行くことが、もちろん理想。けれども今、ベリーダンスは多くのカテゴリーがあります。エジプト、トルコというこの2大潮流をメインにさらにアメリカントライバルフュージョン(ATFと訳される事が多い)、ジプシー、キャバレー、フラメンコスタイルまで。もちろん色々なものと混じって行くことは進化の過程としてあるであろうけれども、まずは元の本流を知り、それを自分なりに身につけてからでなければ。ジャズダンサーが、バレエのバーレッスンをするのと同じです。

そして、今の開発の業界も然り。アカデミアと現場のかけ離れた環境。HQと現場ブランチが同じ考えを共有できないということを今まで嫌というほど見て来ています。大概がHQで作られる大義名分や分析。分析をする前に現地に足を運んだのかと思うような事もしばしば。ここに来て、アフガンでの現実と政治の動きを、アフガンの兄弟姉妹たちを思うにつけ、有能なODAを担う、日の丸を背負うことのできる若手コンサルを育てる事の出来ない現状。国境なんて関係ないけれども、現場に行けば「日本人」と見られる、その中で理想を貫き、渡り合う能力、知識、体力を持ったコンサルを育てきれず、大学に頭脳を、コンサルにロジ屋をやらせることになっている日本のODAの体質。コンサルタントがコンサルティングをできていないというジレンマ。

教育屋として、教育が普及する事が、世界的に見て、「良い」ことなのか?というジレンマ。これは色々長くなるのでここで省略。

あらゆる国で、その国にとけ込もうとすることを信条とし、入り込み、向き合い、愛してきたからこそ、今まで赴任したすべての、まさにすべての国のスタッフや関係者たちを想い、もっとできたのではないかと思いめぐらす。そういう中で目覚めて来た、「日本人」の自覚、文化、与論への想い、苦しみ、ゆんぬんちゅとしての文化継承者、沖縄本島の血をも引くというこの自分という中にある大きな流れがあり、沖縄民謡、与論の島唄、琉球舞踊という世界。そして、触れ続ける日本の文化の継承者たちの職人たる気概も感じます。

与えられたものはなぜか一生をかけても極めきれないほどのものを、目の前に並べられている。そんな想いです。

けれど。
なぜだか、思いめぐらすとき。私を追い越して行く後輩も何人もいる。それを想い、臍を噛むような想いも、しないわけではない。この今の苦しみの中、前に進めていないと、感じない時も、ない訳ではない。悩み、苦しみ、それをも含めてそれでも。

私はどこまでも、イエスの弟子であり、その召し出しに一生涯「フィアット(はい)」を言い続ける。ここまで、今までの自分を振り返り、ようやく、病を得て一時停止し、身体の機能までばらばらになりながら、動かないと言う事はこういうことかと思いながら、苦しみながらも、忠実に、主の示す道に「はい」と応え続けて来た。心が壊れるまで悲しい、苦しい、叫びながらも主の示す道に、這いながら従う事を自ら選び取って来た。テレーズの小さな道を選び取り、愛の中に苦しみを包み込んで。そう、思う。17の時に聞いたその声に、この道を選び取り、差し出されたその手を取った時から。迷い、苦しむ中に、光はいつもあった。

あるとき、カトリックの友人と、久々にイタリアンを食べた後、なぜかファミレスでドリンクバーだけを頼んで語り倒した事がある。そのとき彼女に聞かれた。「ねえ、まいて。まいての道は、召し出しは、選び直せるものなの?」そのとき私は「無理だと思う。」と即答した。彼女はさらに突っ込んだ。「それはどういうこと?」。私には、その意味は分かっていた。「主が、私を呼ぶ道。それがすなわち私の生きる道。もし、主が、私を違う道に召し出したら、迷わず「はい」と応えると思うよ」。

そうだ。人が、どう思うか。そうではなく、私は私の中に住まわれる主。祈る事が出来ず、ただ苦しむしかなかった私の中で、私の魂のために、命のために、ゲツセマネで祈っていた時のように「父よ、できるならばこの魂を苦しみから遠ざけて下さい。けれどもあなたのみ心のままに」と、祈り給うた主、キリストと共に「主よ、わたしをあなたと共に歩ませて下さい」と叫び続ける事。それが私の生きる道。私が「己」の意志ではなく、主の愛に私を明け渡し、その愛に満ちる事。そしてそのために、召し出されるならば、どこへでも行く。

それが、踊り続ける道かもしれない。三線を弾き続ける事かもしれない。あるいは禁域の中に入る事かもしれない。あるいはこの道を大いなる悩みを抱え続けながらも歩み続ける事かもしれない。あるいはそれすべてに関わり続ける事かもしれない。けれど、答えはいつも、この私の中に居られる父なる神、主である聖霊にある。額に聖香油を塗られ、「油を注がれたもの」となったその日から、私はこの信仰に生き、殉じる事を主のみ前に誓った。

召し出されるならどこへでも。たとえ地の果てまでも。

大いなる恵みの祈りを与えられる主に、賛美。
主よ、あなたを愛します。その与えられるすべてを。あなたはすべてを「よし」とされる方。
ならばあなたが良しとしたすべてを、私は愛します。

主によって、主と共に、主のうちに。すべての誉れと栄光は代々に至るまで。Amen.
聖テレーズ「幼いイエスと尊い面影のテレーズ」という、あなたの修道名を私に与え給うたあなたの愛が私をこの命が終わるまで導いて下さいますように。聖母マリアとともに、主イエスの十字架を担い、抱きしめる事ができますように。
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  1. 2012/02/29(水) 21:29:49|
  2. 祈りとともに|
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