Tous les jours Bon Chic

毎日少しでもいいこと探し

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心の中に独房を。

気付いたら数ヶ月、更新してなかったのね。ということに今更。

割と意識的にSNSを始めとするものから離れています(現在進行形)。
所謂SNSの在り方や使い方に、私の求めるものがなくなりつつあるので。

「イイネ」という言葉が流行語になるんじゃないかと思うくらい浸透している昨今。
私がFacebookを始めた頃には日本語版なんてなかったので「Like」というやつでした。
「イイネ」と「Like:それ好き!」は違うと思うのよね。
何だか昨今は「イイネ」が友達の証みたいになって来ている印象を受けて、
それをするしないによる「差別化」がされているような、そんな感じ。
一喜一憂する道具にもなり得る、恐るべきマインドコントロールシステムな感じです。

ここ最近、山ごもり頻度が増して来ていて、つい先日、久々に独りで山ごもり、ではなく
グループでの山ごもりをしてきました→要するに「黙想会」ってやつです。
いつもの通り、カルメル山に登って来ました。

久々のグループ黙想、最初のうちは余りにも人が多くて、潜心するのに時間がかかりました。
もちろんグループならではのメリットも多くあって。
人が多いからこそ、意識的な沈黙がすごく意識に沁みてくるということや、
特定テーマで神父様の講話が聞けると言うこと。
けれども心が所謂大沈黙以上の何か、より厳しいものを自分に求めていて止まない。

個人黙想の時には、ひたすら何もありません。
食事もひとりだし(同時期に黙想に来ている人がいても)、講話なんて無いし。
ひたすら沈黙のうちに、己の内におられる主と対峙します。
その時には、自分と言う人間をまざまざと見せられて言葉にならないほど打ちのめされることも。

グループ黙想の時には、大沈黙でも「しゃべっている」人がいます。
言葉ではなく、存在全体が、言葉を発していることを感じます。
そうすると、自然と空間にざわめきが生まれます。
個人黙想を始めてから初めてのグループ黙想だったので、「入り込めない!」と焦りました。

配布物に、目をやると、黙想中にシエナの聖カタリナの祝日があることを発見。
いつもはカルメルの聖人たちなのに、今回は聖カタリナに怒られたようです。
「心に独房を作り、そこに入りなさい。そこで隠れたところにおいでになる主と出逢いなさい」
...テレジア母さん...同じ教会博士のよしみで、カタリナに頼んだようです。
しかも、カタリナ...私の代母さんの洗礼名です。まさに、1トンハンマー。
撃沈。

そこに、テーマが十字架の聖ヨハネです。
感覚の暗夜、という自由を得ることが書かれている「カルメル山登攀」。
言葉や表現の仕方は違えども、言っていることは同じことです。

「すべてから切り離されて自由になり、己の心の中で自由に神と交わりなさい」

...うーん。この心の感じる自由を言葉で表現しろというのには無理があったようですが

心の中に独房を作りなさい。

Likeだろうがイイネだろうが知りませんが(苦笑)って言い方も良くないですが、
それが友達の証、というのであれば私はそういうところから自由になって、
そんなことがなくとも、心で繋がる友達と「友達」でありたいと思います。

昨今のFacebookの在り方と共に、そういうことも、所謂「気にしなければ良い」のだと。
つくづくそう思うのです。はぃ。

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  1. 2013/05/04(土) 21:05:18|
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詩篇130

神よ 深いふちから あなたに叫び
嘆き祈る 私の声を聞いて下さい。
あなたが悪に目を留められるなら
主よ、誰があなたの前に立てよう。
しかし、あなたのゆるしのために、
人は あなたをおそれとうとぶ。
神は 私の希望、私の望み、
私は その言葉に寄り頼む。
夜明けを待ちわびる夜回りにもまして、
私の心は主を待ち望む。
み民よ、神に寄り頼め、
神は豊かな あがないに満ち いつくしみ深い。
神は すべての罪から、
その民を救われる。

詩篇は、ほぼ唯一の「人から神へ」の言葉です。
聖書の大部分は人への神の語りかけ。
詩篇は旧約時代恐らく1番最初に書かれた箇所で、まったくの人間の言葉で、
神へ語りかけ、呼びかけ、その限りない慈しみとの循環の中で人は癒され、励まされ、
また、自分の「素」、「裸」の姿を発見していきます。

だからこそ、己がただそのままの姿で、すべて剥ぎ取られた姿でいても愛され、
大切にされていることを知った時、人はその愛の深さに驚愕し、畏れ、喜び、安らぎを得ます。

だからこそ主は希望であり、そこに望みを置くのでしょう。


  1. 2013/01/07(月) 23:36:34|
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カルメルでのクリスマス

クリスマス、というと、イルミネーションやプレゼント、もみの木。

そんなイメージの強いシーズンです。
実際に待降節(アドベント)前にアドベントカレンダーが売り出され、クリスマスまでのカウントダウンが始まったりします。

けれど、本来「Christmas」とは、ChristキリストのMassミサ、を意味し、いわゆる「ミサで捧げられる」キリストの誕生を心を込めて受け取る日、という日です。やがて十字架上で命を捧げるキリストの「人間としての」旅路が始まったのがクリスマス。ついでに、「降誕節」と呼ばれるクリスマスシーズンは1月6日「主の公現」の祝日まで続きます。

なので、欧米のイルミネーションや飾り付けはどこか所謂商業的雰囲気が漂う気がしてなんとも言い難い気持ちになります(笑)

教会には、毎年の笑い話として、カップルが必ずどこかのミサでロマンチックな気分になりたくてでしょうか、紛れ込んでしまって「教会でもクリスマスをお祝いするんだね〜」と言っていた、という話がどこかで必ず聴かれます。確か去年のクリスマス、イグナチオでも見かけましたね、そういうカップル(笑)

ということで。今年、22日から連休だったのを良いことに、私はカルメル会の黙想の家に逃げ込みました(笑)

個人黙想で2泊、クリスマスの夜半ミサに与るために1泊。24日の夜以外食事つき。まったくの沈黙の時間。クリスマスの意味をただ沈黙のうちに黙想し続ける時間です。お聖堂でただじっと、聖櫃の中に居られるイエスと向き合い、またクリスマスの箇所を読み返し、想いを巡らせる。

初めてのクリスマス。今のクリスマスとはまったくほど遠いものでした。厩で産まれた初めての子どもを寝かせるベッドも無く、マリアとヨセフは家畜の飼い葉桶を借りて、布に子どもを包んで寝かせるしか無かった。せめて家のベッドだったらそんなことはなかったでしょう。少しでも寝心地が良いように...と寝かせてあげられたのでしょうが。

そこへ来たのは、羊飼いと東方の三人の博士たち。いずれも当時のユダヤ人からは救われない人々として、蔑視されていた人たちです。羊飼いは、その職業故に安息日を守ることなど、律法を守ることができない民として。東方の博士たちは異邦人として。けれどイエスを見出だし、駆け寄って来たのは「救われない」とされていた彼等なのです。その不思議。自分たちは救われないかもしれない。けれど力あるその方を拝むだけでもしたい。と。羊飼いたちには「今日あなた方のために救い主が産まれた」と言われるので、もしかしたら、彼等は希望を持って訪れたかもしれませんが。

羊飼いたちはその後、自分たちが見たこと、聴いたことを嬉しくて周りに伝えて回るのですが...周りは誰も本気に取る人はいませんでした。ふーん、不思議な体験だったねえ...で終わらせてしまうのです。

それが最初のクリスマスでした。

カルメル会は修道会の中でも「観想修道会」なので、本当に黙想や念祷に重きを置きます。なので今回は、指導司祭との数時間以外は、本当に全く沈黙の中、ただただ想いを巡らせる中で過ごしつつ、そんな最初のクリスマスを思っていました。

その中で何度も何度も思い返すシーンがありました。


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この映画に出て来るシーンです。

ベツレヘムへ上っていく途中。ヨセフはマリアにこう尋ねます。

「マリア、君は怖くないかい?君のお腹にいるこの子は、「神の子」なんだ。僕たちは親として何が出来るだろうか。何も出来ないかもしれない。」

マリアはそんなヨセフにこう応えます。

「怖いわ。私たちには何も出来ないかもしれないもの。」

果たして産まれて来たのは、本当に人間の赤ちゃんと同じ、赤ちゃん。普通に「育てて」行かなければ行けない幼子が産まれて来ます。ここまで小さくなってまで、イエスはこの世に産まれて来た。いずれ捧げられるために。ミサのパンとして引き裂かれるために。

そしてそれを迎えたマリアとヨセフ。特にヨセフは、聖書の中でヒトコトも発しません。「沈黙の聖人」です。

どのようにイエスの誕生を迎えるか。その模範がこの2人にあるように思いました。

  1. 2012/12/30(日) 12:51:07|
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「夏の祈り」

9月21日まで、渋谷UPLINKにて公開されていた、ドキュメンタリー映画「夏の祈り」を観て来ました。

21日、東京での千秋楽では、坂口監督の舞台挨拶があるということもあり、何を考えて、なぜ長崎だったのか、ということも思っていたので、それも聞きたくて最終日に行くことに。

夏の祈り公式Webサイト

以下、ネタバレも含みますので、これから観よう!と思っておられる方は、飛ばして下さい。




坂口監督が、恵みの丘長崎原爆ホームに向かうところから、このドキュメンタリーは始まりました。そしてそこから2年に渡る記録映画です。

淡々と、その「原爆ホーム」で暮らす老人たちの日常を記録していく中に、力強く「祈り」が感じられる作品になっていました。

主に取り上げられているのは、そのホームで暮らす女性3名。本多シズ子さん、村上ハルエさん、山口ソイ子さん。3人が3人、それぞれの被爆体験を、インタビューに答えて語ります。ですが、飽くまでこの映画では、その3人のエピソードと共に、取り巻く状況、人々や日常、その他被爆体験を持つ方のエピソード、そして今も続く「放射線の影響」の研究を淡々と切り取って行きます。

この長崎の原爆ホームは、純心聖母会というカトリックの修道会が経営しているため、そこここにカトリックの「祈り」の場面が挿入されます。長崎は今でも伝統的なカトリックの習慣の残る地です。「日本におけるカトリックの聖地」というナレーションが入っていましたが、というよりは「発祥の地」と言う方がしっくりは来ますが。もっと言うと、生活習慣として文化として受け入れられている地、と言えばいいでしょうか。なので、今はめったに見られなくなった、ミサでベールを被っている女性信徒の姿の多さには、聞いてはいましたがちょっと圧倒されました。浦上天主堂を埋め尽くす聖誕徹夜祭のミサの様子で、被っていない女性信徒の方が少ないのではないかと。今、東京カテドラルでこの様子は見られません。

そんな様子に圧倒され、「長崎はすごいなあ」と思う傍らで、淡々と切り取られている日常の中に織り込まれる祈りの風景があまりにも日常的であることにも、ふと気付きました。

「教会の祈り」と呼ばれる聖務日課が、普通に行われているようでした。

最初に登場する本多シズ子さんは、純心聖母会の孤児院で育っていて、その孤児院で被爆しました。両脚が動かず、左目も失明。そんな彼女が、朝の新聞の取り替えをする様子が始めに彼女の境遇の説明以外、何をしているのかの説明もなしに挿入されています。朝まだ暗いと思われる中、そうやって淡々と持ち分の仕事をこなしていきます。

その後、突然場面が切り替わり、お告げの祈りが始まります。手許にあるパンフレットの中には「聖母マリアの祈り」以外に書かれていませんが、「み言葉は人となり」「私たちのうちに住まわれた」という祈りが聞こえました。そうして、朝課が始まりました。

その後の本多さんの日常を、カメラは何の説明もなしにただ切り取り続けます。

その中に感じられたもの。それは、祈りに支えられる人の優しさでした。人に声をかけ、励まし、笑わせる。できることがあれば、手を出して手伝う。少ない場面の中に「ありがとう」という言葉が数回。

普通の「老人ホーム」の日常を映し出した後、何気なく、「被爆劇」へと話が移って行きます。

被爆劇:これは、この「原爆ホーム」に住む被爆者たちが、自らの体験を元に劇を作り、子どもたちにみせるために演じるものです。身体の動く方が、杖にすがって、介助者に支えられたりしながらですがその時の自分の体験を再現し、「平和学習」としてホームを訪問する子どもたちに見てもらおう、語り継いで行こう、という試みです。

練習場面も映りましたが、その時にはそれほどの衝撃を受けませんでした。

ノートルダム女学院の生徒たちが、観劇にやってきて、本番が始まった途端、一気に舞台の上に感情の火花が飛び散るような錯覚さえ覚えるほどの戦慄が走りました。劇自体はそれほど大きな仕掛けがされているわけではありません。でも、入居者の方の台詞はもはや台詞ではなく、60年以上、心の中で叫び続けて来た「あの日」の叫びが堰を切ったようにほとばしり出た「本物の」悲鳴でした。

「母ちゃん、母ちゃん、熱いよ、熱いよ。水ば下さい、水、水を...」

この叫びは、今でも頭の中でこだまします。

本物の叫び、だったからでしょう。気がついたら、涙があふれていました。
3人の女性が登場するごとに、この被爆劇が繰り返されます。それは、その人その人のその時その時の体験を私たちが劇を通して追体験するように、とのことだったのでしょうか。

そして、平和祈願祭。あちこちでの祈りが映されました。爆心地から近い、純心女子学園での慰霊祭のようすも映りました。浦上天主堂の「被爆マリア」。何度も目にする機会はありましたが、在りし日の寄木細工のマリア像を見たのは初めてでした。美しいマリア像。爆心地から500メートルのところにあった浦上天主堂は、文字通り吹き飛んでしまったのです。

被爆マリア
生協ひろしま/組合員活動/活動日記様より拝借)

かつての美しいマリアと、今の虚空を見つめるマリア像。

そんな一面が切り出されたかと思うと、突然現実に引き戻され、長崎病院の病理標本管理室の映像が映し出されました。ホルマリン漬けになっている、献体して下さった被爆者の方々の病理標本。亡くなって60年以上経っても、まだ放射線による傷が遺伝子から消えない。亡くなってもなお、放射線が亡くなった方の身体を蝕んでいる。その事実に、愕然とさせられました。生きている方は、それを思うといかばかりか。

それでも切り取られて行く日常の生活場面。そこには、普通の「老人ホームの生活」が映し出されます。

日常が、少しずつ日常ではないものになっていく感覚、と言えばいいのか。
そんな日常の中に織り込まれる「被爆」という現実。それを必死になって追求し、その人たちの「日常」を支える人の努力。その根底に流れる強い「想い」と平和への祈り。そんなたくさんの想いが重なり合って行きます。見るに堪えないほどの悲惨な映像もありました。でも「見てほしい」というその方の言葉に、勇気を出して、顔を上げました。

爆風による被害。ガラスの破片。たくさんの想いが、ずっしりとのしかかってきていた時、寺嶋しのぶさんのナレーションで、「長崎で歌い継がれているカトリック聖歌があります。」と始まり、耳に入ったのは、聞き覚えのある歌。

み母マリア。

カルメルの黙想会でも終課(寝る前の祈り)の後歌いました。優しく、毅然と聖母マリアへの献身を誓う歌です。純心女子の学生やシスターたちが、歌いながら、亡くなっていった歌。江戸時代の殉教者たちは、アヴェマリアや、サルヴェ・レジーナを歌いながら、殉教への道を歩んでいったと言われます。また、ハイファのカルメル会士も、ちょうど晩課の終わりにサルヴェを歌っている時に、襲われ、歌いながら斬られていったとも。

それを聞いていただけに、この歌は、心の深くに沁み透りました。

入居者の朝ミサの風景に場面が転じても、この歌が頭を離れませんでした。

この後、村上ハルエさんのエピソード、山口ソイ子さんのエピソードもついで紹介されます。
被爆劇の様子も流されました。

その時。
その被爆劇で、「母ちゃん、熱いよ、水、水ばください」と舞台上で演技している方を見ながら、袖に控えていらっしゃる方々が、うん、うん、と頷いているのが目に入りました。

...なんだったんだろう、あれは。その時の自分が重なったのでしょうか。

平和祈願祭の様子が再び映され、職員の方が被爆者の方のメッセージを読み上げます。涙を抑えられない方。目を閉じて祈る方。ロザリオを握りしめる方。

多くの人たちの言葉と、祈り。

平和、ただ言葉にすれば簡単だけれども、本当に難しいことです。心の平和があって初めて世界を平和にすることが出来る。「私は私の平和をあなた方に遺し、私の平和をあなた方に伝える。」ミサの「平和の挨拶」の前の言葉です。「主の平和」と私たちはミサで、周りの方々と言葉を交わします。でもおざなりになっていないか。思わず自分を振り返りました。

映画の中の時は巡り、生誕劇(パジェント)が行われ、生誕ミサが繰り返されました。長崎の夜景に「日常」が再び甦ります。

本多さんが、配達された新聞を朝、取り込んで施設内に配るところから始まったこのドキュメンタリーは、彼女が最後「おやすみなさい」と、寝る前の祈りを唱えるところで終ります。

長崎湾を見下ろして、み母マリアの賛歌が響き、終りました。

全編通して感じられるのは、生きる力、平和への祈り、力強い、根底に流れるその祈り。日常の中で自分の体験を、大きなものとして知りながらそれを「生きる」、それを己の宿命として後世に継いでいく、平和のバトンを渡していこうとするその意志。そしてそれを捉える優しい眼差し。

貫かれる祈りと、自分自身を思わず振り返らされる、そんな祈り。

苦しみの中に在っても、悲しみの中にあっても、生きるための祈り。そしてその祈りの発露としての日常。

自分の祈りを見つめ直すことにもなりました。

最後に、み母マリアを。

み母マリア 身も心も
とこしなえに ささげまつる
朝な夕な 真心もて
君をのぞみ 慕いまつる
み恵みこそは きよき慰め
輝かしき 君が冠(かむり)
うるわしき 君が笑まい
ああ 我ら深く 慕いまつる

み母マリア この汚れし
我らの身を 清めたまえ
この憂世を 暫し避けて
とわの栄え 仰ぎまつる
花咲き匂う 天のみ国へ
たどる道を 照らしたまえ
いまわにも み恵みもて
罪ある この身を 守りたまえ



  1. 2012/09/22(土) 21:38:40|
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ホスチアに留まられる、愛おしい方

この数日、症状の思わしくない日が続いています。疲れと、黙想会と日常生活のギャップ。
多分、そんなところでしょう。悪化しているはずはないのですし。
黙想会(14〜16)の間にも、突然身体の力が抜けて、転んだことが何度か。
けれども黙想会の最後、親友2人と神父様に見守られて、素晴らしい恵みに与りました。
その恵みを、守り通すためにも、生まれ変わらなければ。

でも。私とは、なぜこんなにも弱く、悲しいまでに惨めな存在なのだろう。

だからこそ、そこでくじけることはならぬこと。
秘跡に与りたい。けれどもこの身体が言うことを聞きません。
悲しいことですが、それでも、それだからこそ、この心だけでも
私たちへの愛のために、私たちの肉になるために
食べ物として、ホスチアに留まられる愛おしい方のもとへと飛んで行きたい。


  1. 2012/07/22(日) 09:45:28|
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ホレブの山より

ホレブの山から下りて、元来た道を引き返す時が近づいて来たようです。

どこに属さなくても良い。
主に属するのであれば。

カルメルの霊性は私とともにあり、
テレーズは私がこの島流しの地で過ごすこの生涯、私の手を取って導き続けて下さる。
母テレジアも娘テレーズの働きを助けるよう、守って下さる。
父十字架の聖ヨハネも、通られたその「暗夜」を私に示し、
行くべき道を照らして下さる。

ならば、禁域の中でなくとも。
「形」によって繋がっていなくても。

私は、母テレジアの召し出しと、私の愛するテレーズの召し出しを、
私のものとして生きていきます。

主に感謝。

  1. 2012/07/07(土) 21:08:24|
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聖地巡礼の旅:3日目(シェイクフセイン、マダバ、ネボ山)

3日目。ヨルダンへ、イスラエルから国境を越える。

イスラエルの国境は、私にとってひとつの「嫌なポイント」だ。仕事上、イスラエルの敵対国へ行く可能性が大きいため、イスラエルの出入国スタンプは、私にとっては「押されては行けないもの」。だが、正直に言って聖地に来て、イスラエルのスタンプを押されないと言うのは非常に残念な気持ちになる。が、これは仕方がない。逆に敵対国のスタンプがあるとイスラエルに出入国するのが難しい。私の場合ラッキーなのは、アフガニスタンへ行くためのパスポートは私物ではないため、イスラム教国のスタンプはインドネシアくらい、というところだろう。

国境を陸路越えていくというのも、私にとってはあまり珍しいことではないが、ガイドさんもバスも乗り換える、ということは、やはり「国境越え」を思わされるものがあった。

ちょっとしたハプニングもあった。以前ヨルダンで何かあったらしい日本人女性と同姓同名の方が巡礼団に居たため、彼女が国境でストップされてしまったのである。ネシアでは賄賂欲しさにやられることがある、と言う話はよく聞くが、今回はどうもそうではなかったらしく純粋にその日本人女性が何か違法なことをしでかしてしまい、ブラックリストに載っていた、ということのようだった。添乗員のTさんと同行司祭の渡辺神父が付き添い、大分経って、ようやく解放されて、彼女は戻って来た。全員がほっとした瞬間だった。ヨルダン、侮り難し。

ヨルダン・ハシミテ王国。イスラム国である。入った途端、広がる風景が、アフガニスタンのそれに似ていた。なんだか帰って来たようなそんな気分になったほどだ。カブール空港から市内に入っていくのに似ていて、ダリ語とアラビア語も多少の違いはあれ、文字自体は似ているので思わず、心の中で何だか安心する。職業病だと苦笑。

そして一番始めに訪れたのが、聖ジョージ教会。
聖ジョージ教会

ヨルダンはほとんどがイスラームの国だが、このマダバはキリスト教徒の町であり、そしてこの聖ジョージ教会もそこにある。ここは、ギリシャ正教の教会で、6世紀のモザイク地図があることで有名な教会だ。ドラゴン退治で有名な殉教者聖ジョージに捧げられた教会で、その偉業を示す聖ジョージ十字は、イングランド国旗にもなっている。

聖ジョージ教会祭壇

正面祭壇はやはりギリシャ正教の様式でランプをつり下げた簡素ではあるが美しい。
ここのモザイク地図は、古代イスラエルを表した最古の地図と言われている。地図としては2番目に古いものだそうだが、モザイク地図としては最古のものだそうだ。実際には16mX6mの大きなもので、2万個の石を使って作られたと言われている。

モザイク地図
これは、エルサレム近辺を表している。写真の右側上部に帆を張った船が浮かんでいるのが、死海。その下に欠落している部分があり、丸く囲われている町が見える。そこがエルサレム。その右にはイエスの生まれ故郷であるベツレヘムがある。左側から死海に注ぐ川がヨルダン川。エルサレムのすぐ左にはヤコブの壁が、ヤコブの城壁とヨルダン川の中間辺りに、樹をはやしたオアシスの町、エリコが見える。

モザイク地図2
この地図の右半分がこれだ。
上から伸びている山脈がシナイ山、そして丸く川のようになっているのが、ナイル川、ナイルデルタになる。隠れて良く見えないが、実際にはナイルの三つ又デルタ地帯がよく描かれている。

ギリシャ文字なので読めないのが残念だが、地名としては他にも旧約/新約の地名が多く描かれているとのことだった。また、ギリシャ正教のイコンで埋め尽くされており、

イコンイエスの洗礼
イエスの洗礼の場面

イコンラザロ甦る
イエスがラザロを甦らせる場面

聖母子
聖母子

挙げれば切りがないほど美しいイコンがたくさんあった。ここには挙げていないが受胎告知、イエスの誕生、イエスの奉献と、神殿でユダヤの学者たちに取り囲まれている少年イエスなど。美しい、というのはその装飾を言うのではなく、もちろんその様式もそうなのだが、この教会をモザイク地図に代表されるモザイクの統一感とその真剣な神へ向けるまなざしへとそこにいる人々を導く姿にしている、その美しさがあるのだ。それはヨルダンというイスラーム国にあって、余計に際立っているのかもしれない。

そんなことを思いながら、じっくり温める暇も無く、ネボ山へ。ここはフランシスコ会の管轄だったので、その聖堂の1つを借りて、ごミサに与る。その際、渡辺神父が説教で語られたのは、イエスは「第二のモーセ」であるとその当時の人々は思っていたのだろう、ということだ。この人についていけば約束の地に入れる、という意味で。確かにその通りであるが、約束の地、とはどこのことか。神の国、天上の地。約束の地に至るために導いて下さった方。それはとりもなおさず、私たちの信仰生活を導いて下さる方、ということだ。私たちの「約束の地」が地上の「カナン」ではなく「天国」であるならば、私たちを導いて下さるのはイエスの他に無く、地上をイスラエルがモーセに従って歩んでいったように、私たちはイエスに導かれて、信仰の旅路を歩んでいく。その渡辺神父の言葉は、モーセという人がヨハネ同様に主の道を地上で「示した」人であることを、思わせる。

ネボ山は申命記、まさに命令を申し渡す記録であるこの聖書の32:48から始まる箇所の舞台となる。自分の死を知っていたモーセは、イスラエルの民に神を忘れることのないように、すでに31:16-21でイスラエルの離反を知っている、と主がモーセに語られ、ヨシュアを任命してもなお、モーセは歌う。イスラエルをどのように主が養って来られたかを。自分が成したことは、どれだけ主の力と慈しみ溢れるみ心から湧き出るものだったのかを。そして、ネボ山へ上っていく。
ネボ山左
左に死海が臨める。左手奥にはヘブロンの町がある。

ネボ山中央
このまっすぐ奥には、エルサレムが、手前にはクムランがあり、エッセネ派たちの隠遁生活の跡がある。

ネボ山右
そして、モーセ亡き後ヨシュアによって攻略されるエリコの町もここから臨むことが出来る。

ネボ山方向
モーセはここに立ち、約束の地を見渡す。ここから見える土地がみな、イスラエルのものになる。乳と蜜の流れる地カナン。彼の思いはどうだったのだろうか。そんなことを思いながら、ここに立った。悔しくはなかっただろうか。すでに主は、イスラエルの離反をも予告されている。そして約束の地は目の前にある。入ることが出来ない自分、そして民を留めることの許されない自分。この壮大な風景を目にしたときの、モーセの喜びはどれほどであったか。

モーセはここで死んだ。民数記20:1-3において、メリバの地で民が水がない、と不平を言う。そのため、モーセはアロンと共に主にひれ伏し、水を、と頼む。そこで主はモーセたちに水を与える方法を教える。それが彼の「不信」であった、と主はモーセに言う。教会の祈りの最初の賛歌で、こう歌う。「きょう、神の声を聞くなら、メリバのあの日のように、マッサの荒れ野の時のように、神に心を閉じてはならない(詩篇95)。」そして民数記でも、20:12で主は二人に、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。」これが、モーセとアロンがこの地に入ることが出来なかったその理由である。

だが、このどこが、彼等の不信なのか。ガリラヤ湖で、船が沈みかける時、ペトロがイエスを起こして「先生、私たちは死にそうです」と言う。その彼等にイエスは「ああ、信仰の薄いものたちよ。まだ分からないのか」という。わたしは、どうしてもこの2つが分からなかった。むしろ、主を信頼していたからこそ、主ならばこれをどうにかできるというその全能の力に頼ることが出来ていたのではないかと。それを「不信」と見なすのはなぜか。

この山に立ち、見回してわたしにはやはりそこが分からず、渡辺神父に聞いてみることにした。その応えは、私の理解がいかに「人間と神」の親しさを知らないものかということを明らかにするものだった。

選び出し、召し出したその時点で、必要なものは「すべて」その人に与えられている。だからモーセはあのメリバの泉をわき出させる時に、主に頼る必要は無く、召し出されたその方が信頼して与えた力を使えば良かっただけなのだ。ペトロたちも、船にイエスがおられる、ということを、また召し出された自分たち自身に力がすでに与えられていることを信じるどころか思い至ることすらできなかった。それが、彼等の「不信」、信仰が薄いものたちよ、とイエスをして言わしめた所以なのである。

これは、私にとっては天から雷が降りて来たような驚きだった。召し出しを信じるその力。与えられた力を信じること。そんなことができるものだろうか。そう思っていた矢先、帰国後に、アビラの聖テレジアの「創立史」14章10節にこのモーセにもペトロにもできなかったことをやってのけたカルメル会士のエピソードが載っている。それこそ、水のないところに、水を杖で湧き出させたのだ。ここを読んだ時、「これか」と納得した。

フランシスコ会の教会は現在修復中だったが、この絶景を振り返ると、
青銅の蛇
そこには、青銅の蛇がいる。民数記21:4-9に書かれている。これは、民が神とモーセに逆らった時に、主が送られた炎の蛇による災いを受けてイスラエルが回心し、モーセに赦しを請うた時に主がモーセに作らせた青銅の蛇だ。これを仰ぎ見る人は、例え蛇に噛まれても命を得る。そう言われている。

これがこのネボ山にあるのは、これを持ち、掲げて歩いたモーセの終焉の地だからだろうか。それとも、イスラエルの回心を、モーセ亡き後の離反したイスラエルに思い出させるためなのか。それともモーセ自身の回心のためか。そう思いながら見上げた。召し出しとは、かくも大きな力を与えるものか。それを信じることの強さとは、あのモーセすら、できないほどのものか。召し出しに自分を捧げることは、命を賭けることだ。しかもそれを何とも思うこと無く、喜びとして捧げることだ。私たちの側からできることは、主のご計画のうちにその手足となって、命を賭けて歩んでいくこと。しかしその「見返り」は、それほど大きなものか。その召し出しに与えられる力とは天地をも動かすのか。

自分を振り返る。確かに今でこそ倒れはしたが、15年間命を捧げ尽くしてこの道を歩んで来た。17の時に召し出された時、まさか、と思わず踏み出すことを躊躇いもした。だが「選び取った以上責任がある」と、どんなに脇見をしても(笑)前だけを見て来た。そこに自分の持てる力以上のものが働いていなかっただろうか。周りの支えは、恵み以外の何者でもなかったのではないか。思い返す時、そこにあったご計画にただ、偉大さを思い知ることしか出来ない。

ペトロとモーセ、二人の「不信」が何であったのかを思い知る時、振り返って自分のことを思う。後日ゲツセマネに、そして ヴィアドロローサを十字架を担って歩く時にも思い出すことだが、イエスは神の子でありながら生身の人間でもあった。そしてご自分の「使命」をご存知であった。召し出しは時として命をも要求する。イエスは、その「命」の要求に応える。そして、人としての限界に達しながら、3度十字架の重みに倒れる。自分の使命を本当に知るものはその重さをも知るに違いない。そしてまたその重さを知るものは、その与えられた力をも知るに違いない。でありながらそれがどこから来るものかも。だから、与えられたその重みに倒れても、その力の源を信じて、また立ち上がり、奇跡を起こしていくのだろう。

ネボ山のモーセ、ガリラヤ湖畔でのペトロ。召し出しとはかくも大きく、かくも重い、そしてそれを「自ら」成し遂げる力を与えるものでもあるのかと、山を下りながら思いに耽った。

  1. 2012/06/25(月) 17:32:57|
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聖地巡礼の旅:2日目(ガリラヤ湖畔:山上の垂訓、パンと魚の教会、ペトロ首位権教会、カペナウム)

今日はもうすでに帰国から1週間が経っている。が、正直まだ「現在形」で巡礼の振り返りと、黙想が今でも絶え間なく続き、溢れ出るものが止まらない(苦笑)巡礼中最初の数日間、感動しているのかしていないのか実感が湧かなかった。なぜだろう?と思っていた。先日、現在、指導いただいている神父さんに会って来て、私は海の深くに沈み込み過ぎていたため、海の中にいるのかすら分からないような状態だったのだ、ということが分かって、笑い出したいような気持ちになった。今になってようやくそれが分かった感じ。

ーーーー
5月31日。この日は「聖母の訪問」の祝日だった。また、意向は聖母マリアへの祈り、となっていたので、前々夜に入祭、拝領、閉祭の歌を決める時どうするのか、正直3人で頭を抱えた。が、結局入祭で「あめのきさき」を歌うことにし、あとはその日のスケジュールを鑑み、「キリストのように考え」と「ガリラヤの風かおる丘で」に決めた。

カトリックの青年あるいは信者さんならみんな知っていると思われる歌。
「ガリラヤの風かおる丘で」を閉祭に持って来たのには意図がある。その日は1日、ガリラヤ湖畔を旅することになっていた。最初から最後まで、ガリラヤ湖での出来事が語られ、そのすべてが詰まったこの歌を、この日の朝ミサで歌うことで、その日1日を始めたかった、という想いがあった。

最初に訪れたのは、山上の垂訓教会である。マタイによる福音書5章から7章と2章ものページを割いて書かれている説教の教えは、実に多い。だが、山上の垂訓、と言う時、大体が、マタイ5:3-13、およびルカ6:20-26の「真福八端」を指す。

山上の垂訓教会

実は、マタイとルカは比較すると少し面白い。マタイでは、ここではなぜイエスがガリラヤ湖畔に留まられていたのかが書かれていないが、ルカ書にはマタイではもっと後に書かれているイエスがガリラヤ地方で教えられた後、ナザレで受け入れられないというくだりが書かれている。ナザレはガリラヤ湖に近くはあるが、ナザレからガリラヤ湖までは今でこそ車で1時間ほどの道のりだが、その頃の人の脚では半日はかかったのではないだろうか。

さて、その真福八端が、その日の福音の箇所として読まれた。
巡礼に来て初めて知ったことだが、巡礼に人が訪れることが多い教会は、各教会の関連個所のミサ式次第を、各国語で準備しており、奉献文などもそれにそって準備されている。ので、その日は聖母の訪問ではなく、真福八端だった。そこでのミサは、非常に印象的なものだった。

カルメル在世会は、入会する際、この真福八端を実現するものとなることをも約束するので、これについても勉強する。が、その日やはり、イエスが実際に教えられたところで、神父様にその説教をしていただくと、これはより深いものになっていく。

心に響いたのは、最初の方で言われたことだった。
「イエスが教え始める最初の方に起きたこのできごとです。弟子と成った人たちは、イエスがどんなことを言うことを期待していたでしょうか。そして、この8つの幸いである、を聞いて、何を想ったでしょうか。それは、とりもなおさず「今」私たちが感じていることでも、あるのです。私たちも弟子たちと同じように、イエスがこれで何を語らんとしているのかを得ていこうとすることが大事です。」

そう、前置きしてから、「色々な解釈がありますので、私なりの考えを簡単に」と渡辺神父は解説を始められた。

山上の垂訓教会中2

心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。すでにその人たちのものだ、と現在形で言われていることに注目して下さい。心が貧しい、神に頼む意外にない人たちです。
悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。悲しむ人々、とありますが、私はこれを、悲しむ人とともに悲しむ人々をも含む、と思います。「寄り添う」ということです。

山上の垂訓教会中1

柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。柔和、とはどういうことでしょうか。「心配」はしても「怒る」訳ではない人々、ではないでしょうか。
義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。義とは何でしょうか。正義、正義感でも良いでしょう。しかもそれは「神の」正義です。

山上の垂訓教会中3

憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。これは、憐れみの心を持つ、ああ、可哀想だと思う心を持つ、それだけで良いのではないでしょうか。色々な事情で行動に起こせないことはあるでしょう。けれども心に留めて「ああ、可哀想だ」そう思うだけで良いと思います。
心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る。これは、どう言うことでしょうか。これは「良く」「善く」人を見ることが出来る人ではないかと思います。何事も粗探しをすることは簡単です。ですがこの「善く」見る中に、神の働きを見ることのできる心を持つ人、ということでしょう。

山上の垂訓教会中4

平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。平和、とは何でしょうか。世界平和とか、色々ありますが、私たちの出来ること、それは一番近くの人々に平和をもたらすことではないでしょうか。家族、同僚、親戚、そんな中に笑顔で平和をもたらすこと。実際は近ければ近いほど難しいと言われますが。
義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。さて、日本にも、その礎と成られた方々がいましたね。たくさんの殉教者を出しました。では、それでなければ迫害されていると言えないか、といったらそうではありません。形を変えて、例えば家族の中でひとりだけ信者である、という方も多いでしょう。それもひとつの心の圧迫の形です。日曜日に教会に出かけることに良い顔をされないことも、あるでしょう。これも私は迫害、と言って良いのではないかと思います。

山上の垂訓教会からガリラヤ湖

どうしたら、「この世」という天国で幸せになれるか。神様なしには幸せになれません。私たちはどうやって、この世で幸せになるのかと言ったら、神様に助けて頂きながら、こういう人になっていくこと、それが私たちの天国をこの世に作り出していくことと、なるのではないでしょうか。

渡辺神父のそのお説教の後、全員で手をつなぎ、主の祈りをした。ミサを終え、教会に入っていく。ガリラヤ湖を臨む。その斜面に人が押し寄せ、イエスに教えを請うたのか。人々はイエスがいると聞いて押し寄せ、その人たちに、イエスはその頃のユダヤ教の教えと大きく異なる教えを教え始められる。

実はこの「憐れみ深い人」が後々、サマリア人の里を通る時「善きサマリア人の例え」で「隣人とは誰か」とイエスが問う場面を黙想する時に、再び私の心の中に登場する。この時はさほど心にも留めていなかった。ただ、震災後現地に行けなかった私の罪悪感はこの言葉に救われたことは確かだった。

場面を新約に戻してみよう。

山上の垂訓教会庭

なんだか、その光景が見えるような気がした。この教会の真ん中に立っている十字架に、イエスが座られ、この斜面に追いかけるようにして、たくさんの人がやって来る。イエスが、ガリラヤ湖を見ながら、話し始められる。そんな光景をじっと思い描いた。(ら、気がついたら、巡礼団は全員バスの方へ行っていた(汗)からくも最後のひとりにならなかったが)

この箇所を予習していた時実は、「イエスの」気持ちが私には良く分からなかった。教え始めたイエス。だが、次に行く「パンと魚の教会」の箇所を読んでいて、いくつかの場所に目がとまった。マタイでは「群衆を見て深く憐れみ マタ14:14」と書かれ、またマルコでは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ マコ6:34」、ルカでは「この人たちを迎え ルカ9:11」とある。

パンと魚の教会祭壇アップ

この祭壇の下にある岩にイエスは座り、父なる神を賛美してそこにあったパン5つと魚2尾を群衆に分け与えた、と言われている。イエスは、この時ひとりで祈られていた。そのひとりで祈られているイエスを追って、群衆が押し寄せたので、イエスはその有様を見て、その渇きに応えるべく、座り直されて言葉を発せられたのだ。

この教会は実にシンプルな教会である。華美な装飾はなく、昨日の受胎告知教会にあったようなレリーフもモザイクもなく、ただ床に、パンと魚のモザイクがあるばかりだ。その他にはビザンチン時代のモザイクが残っているが、それだけだ。シンプルな故に、その聖書個所をじっと想うことが出来る。

パンと魚の教会聖堂

イエスは「私は良い羊飼いである」とご自分を言われる。この群衆は、イエスにとって、イエスを慕って来た羊そのものであったのではなかろうか。出エジプト記に通じる部分がある。モーセは、紅海を渡り、イスラエルの民を率いる羊飼いのようにして、民を率いていく。そして、神に賛美をささげ、そのイスラエルの民を養っていく。そしてここはまたさらに、最後の晩餐にまで通じる部分でもある。分け与えていくのである。

少ないものでも、惜しみなく分け与えていくことで、何倍にも膨れ上がっていく。そしてそれは、5,000人の男たちを養うにあまりあった(マタ14:13ー21)主の愛は、それほどに人を養ったのだと言うことが言えないだろうか。

そんなことを考えながら、道ばたにある岩に描かれているパンと魚を見てきゃいきゃい言いながら、次へ向かった。そこで、思い切り、立ち尽くすことになるとも知らずに。

パンと魚、岩絵

次に向かったのは、ペトロ首位権教会である。非常に簡素な作りで、カナやナザレの石灰岩の石造りとは異なり、この地方は玄武岩が産出されることから、黒い岩と白い岩で造られている建物が多い。

ペトロ首位権教会
このように、黒のがっしりした岩の作りになっている。

そして、ここはいわば、イエスの死後、ばらばらになってしまった使徒たちの再結集の地であり、私たちの教会が今一度立ち上がった場所、その場所なのだ。

シモン・ペトロを始めとする11人は、イエスの死によって、行き場を失っていた。彼等が求めていた「救い主」は、ローマの支配からイスラエルを解放して下さる方だった。だが、イエスは十字架上で、死んだ。人と同じように死んだ。マグダラのマリアや幾人かの仲間たちが復活された主に会ったが、彼等にはまだ分かっていなかった。これから先、彼等はどう生きていったら良いのか、それすら分からなかったのだ。ヨハネ福音書21章にそのことが記されている。

ペトロは、漁師に戻ろうとする。彼は妻もあり、このティベリウス湖畔(ガリラヤ湖畔)の村、カペナウム(カファルナウム)に家もあった。数人の弟子も従った。彼等は文字取り、生きる術を失ってしまっていたのだ。もしこのまま、ペテロ始め弟子たちがもとの職業に戻ってしまったらどうだったか。今の教会は、なかったのだ。4月20日のミサの第1朗読の使徒言行録で、ガマリエルがこう言う。「今までにも同じように決起してきたものがあったが、彼等は自然に消えていった。もしこれが神からのものであったら私たちは神に反することになる。だから様子を見てみよう」と。(使徒言行録 5:33−39)その通りだった。ここに神の介入がなければ、彼等はここで、ばらばらになっていたはずなのだ。しかも、ペトロに至っては、大祭司カイアファの中庭で、3度、イエスを否定していた。3とは、ユダヤで「完全」を表す。これは3度という回数ではなく、「知らない」との否定を「完全にした」ことを意味する。この挫折感、悲しみはいかばかりだっただろうか。

だが、そこに神の介入があった。

ガリラヤ湖畔

まさに、ここである。ここの風景が、私の中でこの旅で一番思い出に残る風景のひとつになった。2,000年前と恐らくほとんど変わらないであろうと想われる湖畔の風景。ペトロたちは失意のうちに船出する。そして、帰って来ると、そこにイエスが立っておられる。挫折し、失意のうちにあった弟子たちに、主は、「子たちよ、何か食べるものはあるか」と仰る。不思議なことに、すでに炭火は用意されている。そしてイエスは、ペトロを召し出したときと同じように、再び網いっぱいの魚を、すなどらせる。

首位権教会聖堂

イエスはここ、この石の上で、ペトロたちのために火をおこして待っておられたと言う。

そして。5月25日(金)の福音個所が、ここに当たる。ヨハネ21:15 - 19である。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞かれるのである。そして、ペトロがイエスを否定した3回に準じて3回、自分を愛しているか、とお聞きになるのだ。最後は「わたしに従いなさい」と、締めくくられる。わたしはここに、イエスのペトロへの愛を見たように想った。自分を否定した回数「愛しています」と言わせることで、彼の心の重荷を解き放ち、最後に、羊飼いの役割を、手渡すのだ。

ペトロとイエス

ここでも実はペトロはまだ、脇見をする。後ろにいる、「イエスが愛しておられた弟子」ヨハネの役割が気になる。彼はどうなるのか、とイエスに聞くと、イエスは「他の人はあなたに関係ないでしょう。あなたに大事なのは、わたしに従うこと。脇見運転をしなくて良い」と笑われる。愛されているということで、ペトロはきっと、羨ましかったのだ。だが、イエスが羊飼いの杖を渡したのは、ヨハネだ。「心配しないで、従いなさい」そうイエスは言われたのだろう。

完璧に、イエスの言われたことを理解するのは、聖霊降臨まで待たなければならないが、ペテロはここで、罪の重荷をおろしてイエスの召し出しに再度従い、バラバラになりかけていた使徒たちはイエスの出現によって、再結集され、今の私たちの教会が、ここから始まる。

救いの始まりは受胎告知教会でのマリアの「はい」、ヨセフの受け入れから始まり、私たちの教会は、ここから始まったと言えるだろう。

ペテロ首位権教会

このガリラヤ湖の風景は、あるがままのように見えた。ずっと、ずっとこのままだったのではないだろうかと想われる。それだけに、その湖畔に立った時、何とも言われぬ思いがした。そこに、ペテロが居そうな。そこにイエスが立っておられそうな。その息吹を感じることが出来そうな。そんな気がして、ただ立ち尽くしていた。

が、スケジュールはいっぱいいっぱいで、そこからカペナウム(カファルナウム)へと向かう。
カファルナウムは、イエスが伝道活動を行った、中心地のひとつでもある。イエスはナザレで受け入れられなかった。そして、このカファルナウムに来て、教えられ始める。もちろんそこには、ペトロの故郷であり、ペトロの姑がイエス一行をもてなしたから、という理由もあるだろうが、イエスにとってここは第2の故郷とも言うべき場所になる。

カファルナウム

当時の住居跡が今でも残る。ここについては、マタイ4:15でイザヤ書が引用されている「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の彼方の地。異邦人のガリラヤ、暗闇に済む民は大きな光を見、死の影の地に住むものに大きな光が差し込んだ (イザ8:23)」なぜ、この「異邦人のガリラヤ」が、イエスの関心事となったのか。それは、当時のユダヤ教の在り方にあった。貧しいこの地方の人たちは、安息日を始めとする戒律を必ずしも守れたわけではない。当時のユダヤ教指導者たちは、そうした人々を「穢れたもの」として、律法に反するものとして辱める。しかし、イエスが救いたいのは、そうした「手からこぼれてしまった」人たちだったのだ。だからこの小さなカファルナウムの地が「幸いな」光を見るのである。対比できるのは、後に出て来る、「主の涙の教会」で、エルサレムを見たイエスの「おお、エルサレムよ、お前は不幸だ」となるだろう。

そのカファルナウム(カペナウム)で、主はペトロの姑を癒し(マタ 8:14-15/マコ1:29-31/ルカ4:38-39)、その会堂で教えられる。

カファルナウム会堂跡

左に列柱が見えるが、これがその「会堂」跡である。ユダヤ教では、神殿があったところにしか神殿を再建できないことになっている。今見えるこれは、イエスの時代のものではなく、もっと新しいもので、会堂を探そうとするともっと深く彫らなければならないが、この上に乗っているものも遺跡のため、イエスの時代のものを掘り出すことが不可能だそうだ。

ここは、有名な「中風の人を癒す」という奇跡が行われた箇所でもある。

カファルナウムシナゴーグ跡

これは前面に出ているのが、八角形のシナゴーグ跡で、ペトロの家はこの後ろ側にあったと言われている。マタイ2:1-12に詳しく記述されている中風の人を癒すエピソードだが、ガイドのHさんが話してくれてわたしも納得したことがある。ここでは「屋根を剥がし、イエスの前に中風の人をつり下ろした」とある。そうするとイエスはその信仰を見て、その人を癒す。が「人の家の屋根勝手に壊して、褒められたものじゃないような...」と想っていたのだが、この辺りの屋根は茅葺き、草葺きの屋根だったそうだ。なので壊してもそんなに大事ではない...ということ。だが、もうひとつ疑問が産まれた。そんなへなちょこの屋根だったら、上った途端に落ちるんでないかい、ということだが...これは、置いておこう。

カファルナウム。見捨てられた「異邦人」とまで言われた地。イエスはここを拠点とされる。そこにイエスが手を差し伸べたかった人たちがいるのだ。青年ミサでよく使われる憐れみの賛歌に、あんちょの作ったものがある。
「打ち砕かれたこの心を癒すため 遣わされた主よ憐れみ給え
 罪人を許して招くために来られた キリスト我らを憐れみ給え
 父の右に座して私たちのために 取りなして下さる主よ憐れみ給え」
これが、ずっと頭から消えなかった。きっとカファルナウムの人々は律法が守れないことに、どこか割り切りながら、どこか苦しい思いをしていたに違いない。そこに、イエスが真福八端と教えを持って来た。律法によって救われるのではなく、信仰によって救われるのだと。

なんだか、イエスが抱きしめようとした人々が、分かって来た気が、した。

そして私たちは、ガリラヤ湖へ、船出した。
ガリラヤ湖1

結構な波が立っており、しぶきがでっきにかなりざんざん振って来た。
ガリラヤ湖2

実は結構揺れた。こんな時、マルコ4:25-41は、良い黙想の材料になる。私たちがおろおろするほどの波では、漁師であったペトロやアンデレたちは、うろたえないだろう。しかし、彼等はその余りの嵐に、艢の方で寝ておられるイエスを起こし、なんとかしてくれ。という。ここでイエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃる。わたしは、この部分が腑に落ちないままだった。それは、翌日のネボ山でモーセが約束の地に入れなかったのはなぜか、という疑問とも同じだった。が、ここではただ、ただただ、その揺れを感じ、ガリラヤ湖から見える風景を見つめ、ここで起きた多くのことに、想いを馳せた。

ガリラヤ湖3

私たちの教会はここから再出発した。主は新しい教えを、この湖畔でなさった。ペトロとアンデレを召し出し、この湖を鎮められた。そのひとつひとつが、この、ずっと変わらないであろう景色の中で、在りし日の人間イエスとその弟子たちをまざまざと、思い起こさせる材料になり、ただずっと、岸を眺めていた。

ガリラヤ湖畔ギリシャ正教会
湖畔には、ギリシャ正教会の教会や、

ガリラヤ湖畔修道院
エルサレム十字の旗が翻る教会?修道院?と思しき建物が建っていたが、やはり本当に美しい自然がそのままそこにあった。

その後、2,000年前の古代船が発掘された博物館へ行った。
もちろん、ペトロの、とかイエスが乗った、とかいうものではないが、その作り方がまた面白く、先に外枠の木をつぎはぎして、胴体部分を作り、骨を入れると言う作り方、その造船技術の巧みさが見てとれた。そして、船を見ることで余計にガリラヤ湖畔周辺での生活が、リアルに思い描けるようになった。

...ここは写真NGだったので、残念ながら写真がありません。

この2日目は、私にとって大きな意味を持った。
ここ何度か、一番印象に残ったのはどこ?と聞かれる。それはもちろん、十字架を担いだあの道も。マリア永眠教会もあるが、このガリラヤ湖畔周辺は、人間イエスが弟子たちとふれあう様子を、リアルに思い描くことの出来る場所だった。私たちの教会は、ここで神が介入し、なくなるはずだった弟子たちの集団を纏めなかったらなかった。まさにガマリエルの言う通り、神からのものであれば、神の介入によって続いていく集団、だったのだ。

そして、ペトロは、何度も聞かれて悲しくなりながらも、その召し出しに応える。イエスは、自分の役割をペトロに任せる。「他の人はどうでも良いのだ、それはあなたの範疇ではない。あなたはわたしの後を継ぎわたしの羊を飼いなさい」と、仰るのだ。ペトロはそうして、完全なるイエスの否定から救われ、従うものとなる。

目を閉じると、今もガリラヤ湖畔が浮かぶ。
あそこに確かに主はおられた。そして今も、わたしとともにおいでになるのだと想うことのできる場所だった。

  1. 2012/06/16(土) 19:09:19|
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聖地巡礼の旅:1日目(カイザリア、ハイファ、ナザレ)

1日目(現地での1日目ということで)
行程:テルアビブ→地中海を北上し、カイザリア:ヘロデ王の宮殿跡などを見学 →ハイファ:カルメル会修道院にてごミサ→ナザレ:受胎告知教会、聖ヨゼフ教会→カナ:婚礼教会

夜中着いたので、全く見えなかった外の景色を朝起きてから見た。起きた瞬間は「本当にイスラエルにいるのだろうか」と心配になってしまったので、起きてみて周りを見回して、ホテルにいて安心した(笑)

ひとりで参加、というのは私だけだったので不安ではあった。けれどもその日のうちにお仲間のMさん(本渡教会)Hさん(菊名教会)と、3人でこの先全行程で使う聖歌の打ち合わせをし、入祭、拝領の歌、閉祭を決め、答唱の確認をしていたので、少し打ち解けられた感じ。

テルアビブの朝

外を見たら、向こうの方に地中海が見える。歩いていかれる距離だと聞いていたが、その日は朝から出発なので、断念した。これからいくらでも見る機会はあると言うことだったので、急がずに。

今までの出張の時の荷造りスキルがものを言うのはこういうとき。しっかりと必要な洗面用具だけを残し、後はパッキングして荷物を引き取りに来てくれるので、ドアの外に出し、朝食へ向かった。バイキング形式。出ているものがアフガンのホテルを彷彿とさせ、なんだかちょっと笑えた。

ご飯後、手荷物を持ってバスに乗り込み、改めてゆっくりと周りを見回した。先進国、本当にびっくりするくらい高いビルが建ち並ぶ。ジャカルタを彷彿とさせる発展の具合に、ちょっと驚くくらいだった。

渡辺神父様がみんなにくださった「日々の祈り」で朝の祈り。教会の祈りに準じているものも入っていて、一石二鳥とはまさにこのことだ(笑)教会の祈りも持って来ていたけれど。祈りに心を沈めて、これから始まる巡礼へと気持ちを準備する。

次第に車窓からの景色が、砂地に低木、そして砂地の向こうに地中海が見えるように、変わっていく。

カイザリアへ車窓

カイザリアへ車窓2

海の色が見え始めたとき、思わずバスの中から感嘆の声があちこちで上がる。綺麗な深い青に、誰もが目を見張った。

<ヘロデ王宮殿等跡>
そして、カイザリアに着いた。
カイザリア、コロセウム

まず見えたのは、御馴染みの形。ローマでも見た、コロセウムだ。ローマのコロセウムよりも小さいが、ここがかつてローマの支配下にあったことを、如実に物語る象徴的な存在と言えよう。外壁も美しく残っており、ここで何が行われたのだろう、と思いながら炎天下、その壁を見上げた。

ヘロデの宮殿に、このコロセウムがあったのか。

カイザリアコロセウム中

驚いたことにこのコロセウムはまだ使われていると言う。フランスのニームで見たコロセウムもまだ闘牛などに使われていると言うことだったから、2,000年経った今も使えるほどのものを人間は建てたのだということが、いくつかのコロセウムを見て来て実感として湧いた。このコロセウムは半円形なので、闘技場などよりむしろ劇場としての意味合いが大きかったらしい。今準備しているのは私たちの見学数日後に行われるマドンナのライブ会場としての準備のようだ。このコロセウムでマドンナが歌うのか。同時に建てられた当時はどんな演目が演じられていたのだろう。ローマ神話の世界だろうか。

そんなことを考えながら、先へと進んだ。

宮殿跡

そして見えて来た宮殿跡。その宮殿は、地中海を臨む海辺に建っていた。
宮殿跡と地中海

ローマ様式、コリント様式の柱が立つ。石組みが今なお残り、3Dで思い起こすと本当にローマ様式の宮殿であったのだろうことが、良く分かる。今なおのこる、ヘロデが専用で使っていたと思われる、プールの跡。
ヘロデのプール

そしてその床にあった、モザイクの断片。
ヘロデの宮殿モザイク

ここには出ていないが、ヘロデは自分だけの秘密の逃げ道をいくつも持っていたと言う。こんな栄華を誇りながら、ヘロデはそれでも傀儡の王に過ぎなかった。この周辺一帯のユダヤ人の王ではなく、ローマから派遣されて来た傀儡の領主、王に過ぎなかったのだ。当時ユダヤ人はそんなローマ支配から解放する救い主が来られることを待ち望んでいた。イザヤ書にある通り、「あなたを苦しめた者の子らは あなたのもとに来て、身をかがめ あなたを卑しめた者も皆 あなたの足元にひれ伏し 主の都、イスラエルの聖なる神のシオンとあなたを呼ぶ (イザ 60:14)」と記され、ヘロデは「ユダヤ人の王が来るとき、力でねじ伏せられる」ことを恐れていたのだ。

それゆえ、東方の3博士がやってきて「ユダヤ人の王となる方はどこにお生まれになったのでしょうか」と聞いて震え上がって「密かに」彼等に時期を確かめたのだ(マタ2:7)。自分のしようとすることが、律法学者たちに知られてはならなかったから。知られて、ユダヤ人たちに決起されてはならなかったから。そして、「ユダの地、ベツレヘム」に生まれた2才以下の子どもたちを皆殺しにする。エレミヤの預言は、こうして実現する「ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。」

けれどこのエレミヤ書は、マタイの福音書には書かれていないが、こう続く。
「主はこう言われる。泣きやむが良い。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。(エレ 31:16 - 17)」これは、十字架の道行で、イエスがエルサレムの女性たちに言われたことに似ていた。エレミヤの預言は、幼子殉教者の預言だけでなく、この苦しみがイエスの誕生によって成就することをも意味しているのではなかったか。幼子殉教者たちは神の国に入り、天の国で迎えられる。そしてそこで生まれたイエスによって、母親たちにも、救いの門が開くのだ、と。

ヘロデの宮殿を見ながら、いかに彼がローマの傀儡として不安な日々を送っていたかを想像する。たくさんの宮殿を建てていながら、ユダヤ人のメシア到来を恐れていたか。もしかしたら彼の治世中ではないかもしれないのに。そう思うと、地上の権力とはいかに儚いものかと、思い知らされる。

地中海

地中海は飽くまで青く美しく、その息を飲む美しさはそれが「自然の美しさ」であればこそ。そこに目を注ぐとき、天と地、見えるものと見えないものを創造された神の被造物である自然の美しさと、朽ちていくものの儚さ、はかないが故の美しさとを嫌でも思わされた。そんな中でも人はやはり美しいものを作ることが出来る。

水道橋

その自然を、巧く利用するとき、こうしたものができる。このローマの水道橋は、上下水道に分かれており人の知性によるローマ時代の繁栄をよく表すものだ。南仏のモンペリエにも同じ物があったが、やはり見て「人間」が「神の似姿」として造られ自然を利用するようにされたことを思わずにはいられない。

<カルメル山>
そんな想いを抱きながらバスに戻り、今度はそこをさらに上がって、ハイファのカルメル山へと向かった。旧約聖書では、「神の山ホレブ」と記されている。カルメル山、としては列王記(上)18:20に記され、そこで、イスラエルの民がバアルの神を拝んだことで主の怒りを買い、エリヤを通じてその威光を表した場所として記されている。「カルメル山」と書かれているが、実際には山はひとつではなく、山脈として連なっており、現在のカルメル山もその峰のひとつに当たる。

エリヤはバアルの預言者たちと対立し、その粛正をおこなったため女王イゼベルから脅迫されて恐れて逃れる。その道すがら「主よ、もう十分です。私の命を取って下さい。私は先祖に勝るものではありません」と、主にその命を取って下さるように頼む(王上19:4)。もはや先祖の預言者のように偉大なことが出来る力は残っていない、と。しかし主のみ使いが彼を養い、食物と水という「目に見える」養い方をし、また、眠らせて身体の力を取り戻させる。そして、列王記にはこうある。「その食べ物に力づけられた彼は四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」神は身体を養うことで、心までも力づけたのだと言えよう。これは、主がイスラエルの民をエジプトから連出した時と全く同じ現象なのだ。イスラエルの民は、奇跡によって紅海を渡ったが、食べ物がなく、モーセとアロンに向かって不平を言った。そのため、主はその訴えを聞かれ、マナによってイスラエルを養われた(出エジプト16:4-22)。この時も主はイスラエルとともに歩まれた。エリヤは、自分が主の業を現したと思っていたが、本来は主がご一緒にいたからこそ、できたことだったのだと、気付いたのではないだろうか。

ホレブの山についたエリヤは洞窟に隠れる。
エリヤ

洞窟に隠れている彼に主は語りかけられる。エリヤはもう、自分の命を取ってほしい、とは言わない。イスラエルがバアルを拝み、主との契約を捨ててしまった悲しみを訴える(王上19:10, 19:14)。主が、まだ自分を使われるのかどうか、エリヤは神の手にその判断をすっかり委ねたのだ。今まで主が現れる徴とされてきた激しい風、地震、火が彼の洞窟と主の間を通り過ぎる。だが、聖書はこう言う。「その中に主はおられなかった。」そして主は、「静かにささやく声(王上19:12)」で語りかけられた。今までと違う方法で「直接」語りかけ、それでもなお顔を覆ってエリヤは出て来る。それは、主を見たらその輝きに死んでしまう、と言われていたからだろう。そのエリヤに主は言われる。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。(王上19:15)」と。まだ主はエリヤに役割を終えていないことを告げられる。

そのエリヤに対し、主は希望をもお与えになった。エリシャという後継者、そしてバアルにひざまずかなかった7,000人のイスラエルの民(王上19:16, 19:18)。7はユダヤでは完全なる数字のひとつなので、本当に7,000人だったかは分からない。けれども、言葉と霊でエリヤに臨み、食物を与えて養い、さらに直接語りかけて力を与えた。エリヤにとっては、その先へ進む、大きな力になったに違いない。

現在カルメル会では、このエリヤがカルメル山に隠れたことから、エリヤをカルメル会の創始者としている。実際に彼が隠れたと言われる洞窟は、この祭壇の真下にあり、ユダヤの方々は今でも下の祭壇の方へ詣でると言う。

また、カルメル会はイスラムによる迫害に遭い、隠遁生活を送っていた修道士たちもこの地で1291年、修道院を壊され、殺される。それと前後してヨーロッパへの移住を余儀なくされたカルメル会士たちは、預言者エリヤの精神を受け継ぎながらもその会の始まりの場所を失いかけ、アイデンティティの揺らぎを覚える。1251年、そんな中聖母は当時の総長、聖シモン・ストックにスカプラリオをお与えになられ、そのご保護を約束される。

今、ようやく帰還を果たしたカルメル会のその大聖堂には、そのカルメル山の聖母が、訪れる人々を見守り、シモン・ストックに与えたスカプラリオを手に待っておいでになる。

カルメル山の聖母

最初はその主聖堂でミサをあげるはずだったのだが、巡礼者でざわざわしていることもあり、香部屋を通って小聖堂へ案内された。

その聖堂に入った途端、私は固まってしまった。彼女が、私を「待って」いた。
カルメル会のテレーズ

ノヴェナの結果が、そこにあった。その識別はまたゆっくりしなければ行けないとは思うが、一瞬、固まった。ひるんでいる暇はなかった。その日は朗読をすることになっていたから。彼女を見上げて、助けを請うた。なんと結局、先唱もいなかったので結局、朗読も先唱も両方することになった。答唱にいたっては、詩篇部分は独唱になった(苦笑)しかも、ご聖体とおん血、両方拝領することになった。先唱は初めてで、しかも朗読も答唱も、歌いだしもすべて一人でやったにもかかわらず始終私が落ち着いていられたのは、テレーズの手が私を支えていたから、としか思えない。テレーズが私を動かし、心が静かな中でミサに与った。そして、私の奉献の徴として、スカプラリオを「目に見えるように」出し、カルメル会の色である褐色の服で、ミサに参加した。でも、そんな形がなかったとしてもそれは「私の」奉献であったが、テレーズがそこで私を取り上げ、主に渡して下さったに違いないと、今でも思う。

ハイファからみる地中海

ハイファから見る地中海は美しく、どこまでも青く、人の力を超えた自然美があった。
バハーイ教空中庭園

同時にそこは、バハーイ教の聖地で世界遺産でもあり、このイスラエルと言う地の複雑さをもかいま見せた。

<ナザレ>
旧約の世界であるエリヤのカルメル山から、今度は一転してヘロデの時代に再び戻り、ナザレを訪れた。「すべてはここから始まった」とも言える、受胎告知教会。
受胎告知教会

ちょうどこの巡礼に出る前にスカプラリオ着衣式を行い、マリアに生涯を奉献することを誓ってから、読み始めた本、「マリアの福音」に、こうある。「マリアの身分について、私たちは何も知りません。アロンの家柄の従姉妹エリザベトや、ファヌエルの娘、女預言者アンナとは反対に、ルカはマリアの家族については一言も語っていません。最近では、多数の聖書学者たちは、マリアはダビデの家系には属していないという意見に一致しています。イエスはヨセフによってダビデ家の子孫とされているのです。」

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 PP. 15-16

マリアはダビデ家に属していなかった。しかもこの頃恐らく、14-15歳であったと思われる。にもかかわらず、すべてはここから始まる。私たちの目から見てまだ幼い少女とも言えるマリア。同じ「マリアの福音」を要約してマリアの「はい」の素晴らしさを黙想する。洗礼者ヨハネを妊ることを主のみ使いから告げられたとき、ザカリアは勿体をつけて無理だ、と言い訳をする。「何によって、私はそれを知ることが出来るのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も歳をとっています(ルカ1:18)。」そうして徴を求めるのである。同じことが、アブラハムとその妻、サラにも言える「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか」(創世記17:11)」「サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた...サラはひそかに笑った。...主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか」(創世記18:10 - 14)」。マリアは、笑わなかった。困惑はした。そして「私は男の人を知りません」と答える。だが、ガブリエルが「神にできないことは何一つない」と答えると「マリアは言った。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)。」徴を願った訳でもなく、不可能だろうと心の中で不信を持った訳でもなく、素直に「はい」と答えたのは、マリアだけであった。
受胎告知教会には、少女マリアの像がある。今までの大人で、悟りを開ききったようなマリアの顔ではなくその顔にはどことなくあどけなさが漂う。

少女マリア像

妊娠の兆候が表れるまで、徴は現れない。不安だったに違いないが、福音の中に、そのマリアの姿は描かれない。だが、すべてはここから始まっていく。

受胎告知教会には聖堂内外に、世界中からのマリアの絵、モザイクが飾られている。数を上げたら限りない。良く知られている無現在のマリアの絵、メキシコのガダルーペの聖母、韓国、中国、タイのその国の衣装を着た聖母、日本の細川ガラシャをモデルとした聖母。
日本の聖母
日本の聖母画

ポルトガルの聖母
ポルトガルの聖母画

ガダルーペの聖母
ガダルーペの聖母画

韓国の聖母
韓国の聖母画

ありとあらゆる聖母画があり、思わず絶句するほど。その昔、と言っても数年前、なぜかアフガン北部でEWTNが見られたとき、ミサ中継の後に、Rosary in the Holy Landというのがあり、聖地の関係する土地を映しながら玄義を黙想していく番組があった。その、喜びの玄義の最初の受胎告知で、この教会が映されていた。いくつも見覚えのある聖母画があり、「ああ、これがそれか!」という感慨深さに包まれた。アフガン北部でしゃかりきになっていた時、毎日のロザリオが私を支えた。聖地への憧れが芽生えたのも、その頃だった。あの頃をも思い出し、心から主に感謝した。

ここは地下にも祭壇がある。地下の祭壇は、マリアが住んでいたと言われる家の目の前に祭壇が丸く造られている。
受胎告知教会地下聖堂
そしてその奥には住居跡が残っている。

主聖堂の屋根は純潔を現す百合の花にかたどられており、ひとつひとつにM、すなわちMariaの頭文字が記されている。受胎告知教会屋根

そして、そこを出てすぐ横が、聖ヨセフ教会になっている。
ここは、聖ヨセフが、イエスの地上での父としてマリアと共にイエスを育てた場所と言われており、仕事場や井戸なども遺されている。だが、ヨセフに苦しみがなかったわけではないだろう。その感情自体は聖書では語られないが、マタイによる福音書では「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した(マタイ1:19)」としか書かれていない。しかしこの頃のユダヤの習慣を考えてみればこれすら大変なことであることが分かる。マタイでは「夫ヨセフ」と書かれるが、ルカ福音書では「身ごもっていたいいなずけのマリアと一緒に」と書かれる。いいなずけなのか、夫婦なのか。微妙な書き方だが、これ自身にすでに意味がある。私の見た「マリア」という映画に描かれていた背景としては、結婚しても1年は同衾することは許されず、夫が新しい家を作り、そこに妻を迎え入れるまで関係を持ってはならないとされている。では、ヨセフを「正しい人」だったので、という所以はどこにあるのか。

マリアを心から愛していたからこそ、表ざたにすることは石打の刑に処し、殺すことになるということを承知していたからそれを避けようとしたこと。それでありながら、律法を正しく守ろうと考えたから縁を切らなければならないと考えたこと。この2つがまずある。狭間で苦しみながら、どちらをも守ろうとしたヨセフのとった決断が、「ひそかに縁を切る」ということだった。だが、生まれる子はダビデ家の子でなければならなかった。それは、メシアはアブラハムの子孫、ダビデ家から出ることになっていたからである。そしてそこに神が介入する。

「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(マタ1:20-21)」夢でこれを聞いてヨセフは、マリアを迎え入れる。マタイにもルカにもこのことの重大さが書かれていない。だが、これは周囲にはヨセフとマリアは律法に反して、期日が来る前に同衾したと言うことを認めた、ということを示すことになり、ユダヤ人の中で後ろ指を指されることとなることを意味する。しかしヨセフは、マタイ福音書に書かれているように、きっぱりとマリアを迎え入れる。それが「神の目に正しいこと」であるから。

聖ヨセフ教会は地下にヨセフの仕事場の遺跡とチャペルがあり、左から、死の床にあるヨセフ、マリアとヨセフの結婚の場面、右に悩めるヨセフと夢に現れる天使のステンドグラスがある。地上の主聖堂は左に死に行くヨセフ、真ん中に聖家族、右に悩めるヨセフと夢に現れる天使の絵が飾られている。

地下中央聖堂
地下中央聖堂

主聖堂
主聖堂

律法に適っていないことであっても、それが神の目に正しいことであったなら、無条件に従う。これがこのマリアとヨセフという「正しい」夫婦に共通していたことであり、この二人が共にあったからこそ、イエス誕生から始まる今日に至るまでの神秘が実現した。この二人が揃っていなかったなら、イエスは産まれて来なかった。むしろ、いわばこの二人は選ばれて夫婦になった、と言うべきかもしれない。

映画「マリア」にこんなシーンがある。ベツレヘムへ住民登録のためにマリアとヨセフが上っていく。その途中、川岸でヨセフとマリアが座りながら会話を交わす。ヨセフが、こう切り出す。
「マリア、君は怖くないかい。神の子の親になるということが。」
マリアは答える。
「怖いわ。」
それに応じるようにヨセフは想いをため息のように吐き出す
「親と言ったって、何が出来るんだ。何もできないかもしれない。何も教えることは、無いかもしれない。」

けれど、聖ヨセフ教会の中にはヨセフの仕事場が遺っており、そしてヨセフを手伝うイエスの姿が描かれている。それはとりもなおさずイエスが「人の子」として生まれ、人間として少年時代を過ごし、他の子どもと同じように両親を手伝って育った、と言うことに他ならない。

聖家族仕事シーン

因に、この地方の家はすべて石造りである。ヨセフは大工と書かれているが、正確には建具屋さんのようなものだったのだろうというのが、ガイドさんからの説明であった。そう言われてみると、確かにこの周りはすべて石造りの建物だった。

そうやって、イエスもヨセフと同じように建具を作っていたのだろう。
ここで思うのはイエスがナザレで受け入れられなかった理由のひとつに、この二人が「ユダヤの律法を破った」と周りから思われていたことも関係するのではないかと言うことだ。まだ同衾することを許されていない時期に一緒になった二人から産まれたイエスを、周囲はどう受け取っただろうか。特に、ダビデ家に属するヨセフの家族がどう思ったか。イエスが教えを伝え始めても、そうそう簡単に受け入れるわけにはいかなかっただろうと言うことが容易に想像できよう。それでもなお、この二人は律法を超えた神の働きに信頼を置いたのだ。

<カナ>
そんなイエスの少年期を過ごしたナザレから少し離れたところにカナ村はある。今もカナ村は、当時の面影を残すかのようにこじんまりとしており、石畳の通り、重々しい石造りの小さな家々と石垣の町だ。石は歩かれてすり減り、てらてらと光って滑り易くなってすらいる。

カナへの道
カナの道

カナの教会
カナの婚礼教会正面

イエスと母マリアは、このカナ村まで婚礼に呼ばれている。一説ではこの婚礼は、母マリアの従兄弟の子の婚礼だったのではないかということだ。そして、ここで、驚くべきことが起きる。それがカナの奇跡である。ヨハネによる福音書2:1-12がその部分を示しているが、その前から黙想すると、すでにイエスの従兄である洗礼者ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けながら、自分について尋ねる人にこう答えている。イザヤ書を引用して「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と。」と。これはイザヤ書40:3 - 5に書かれている通りである。その前の記述をも、忘れてはならない。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」救いによる栄光の帰還の近づいていることを、この箇所は示している。

奇しくもこの後のイザヤ40:6-8は、その日私が読んだ第一朗読、ペトロの手紙(1)1:18-25に引用されている。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に変わることが無い。」カイザリアのヘロデの宮殿の後は栄華の跡の空しさを留め、神の創られた自然美を際立たせた。そこにすべてを「善し」とされた主のみ言葉が立っていた。

さて、カナに話を戻すと、洗礼者ヨハネはすでにその道を整えまっすぐにせよ、というイザヤ書の通りにしており、エリザベトの胎内でイエスを知ったときのように忠実であった。また、イエスもシモン・ペトロとアンデレを、翌日にはフィリポとナタナエルを弟子としていた。しかし、まだ時は来ておらず、洗礼者ヨハネのもとへ、行く時期ではなかった。カナの婚礼はそんな最中に起きた。

カナ主聖堂

主聖堂にはマリアがイエスに「ぶどう酒が足りません」と言う場面が描かれ、6つの水瓶が置かれている。ユダヤ教では6と言う数字は不完全な数字で、7になるために1つ何かが欠けていることを表す。その「欠けているもの」は何だったのか。色々な解釈が出来る。「不完全」な状態で夫婦になった二人がこれからふたりでひとつとなり「完全なものとなる」ために努力していくということも、解釈のひとつ。そしてそこに、「マリアの介入」によるイエスの奇跡、という介入によって完全なものとされること。これももうひとつの解釈としてある。

どちらにしろ、イエスはマリアにこう答える。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません(ヨハネ 2:4)。」それでもマリアは引かない。召使いたちに「この人が言うことは何でもその通りにして下さい」と、イエスに全幅の信頼を置いて、そう言う。そのマリアの信仰の故に、イエスはまだ洗礼を受ける前、公生活をお始めになる前に、水をぶどう酒に変え、新郎新婦を恥から救われた。

このマリアの信仰とイエスのマリアへの応え故に、私たちカトリックは、マリアの取り次ぎによる救いを祈る。ここにその原点がある。マリアがこれまで育てて来られたおん子イエス。すべてを心に留め、天使のみ使いによる「神の子」を宿したその時から、羊飼いと東方の博士たちの来訪を受け、それでも人間として育っていく我が子イエスの成長を目の当たりにしながらもヨセフといつか川岸で交わした会話は常に心の中にあったに違いない。だからこそ、発することの出来た「なんとかしてください。」という全幅の信頼を置いた言葉だったのだろう。だからイエスはその言葉に応えられた。私たちが主に全幅の信頼を置き、まったく不安を差し挟むこと無く頼る時、主はその言葉に目を留めて下さる。

私たち巡礼団はここで、3組ご夫婦で参加されている方の婚姻の秘跡の更新の祝福をさせていただいた。
カナ、祝福

私たちも右手をかざして、想いっきり、祝い、祈らせていただいた。お一方、奥様だけが信者さん、という方もおられたが、それでも神父様からの按手を受けられていた。
カナ、祝福全員

聖母の介入が、イエスの心を動かし、公生活を始める前にその力を使われる、ということでイエスはその力を現し、またそれが主なる神の御心に適っていた、ということは言うまでもない。これによって6つの水瓶、という不完全な形は完全なる物となったと言えよう。

そして私たちは、カナの婚礼教会のシスター方が、親切にもこの3組のご夫婦にご用意くださった婚姻証明書を頂き、その日の宿、ガリラヤ湖畔のキブツ(ユダヤ人共同体)のホテルへと向かいながら夕べの祈りを共に捧げたのだった。

  1. 2012/06/10(日) 22:51:26|
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聖地巡礼の旅:はじめに

帰って来た途端、というか最終日にお笑いな理由で飛行機に乗る直前に風邪を引き、飛行機の中で、ペンラック、パラセタモール、ベンザリン(睡眠導入剤)を一気に飲んで、8時間寝倒し、帰国翌日、今日と結局寝倒している訳ですが(笑)少しずつ振り返りを書いていこうかな、と思います。

正直言って、身体と心が持つかな、という心配はありました。
聖書も読み込んでいなかったし、霊性を深めると言う意味では寧ろ「沈黙」の黙想会に勝るものは無いと決めつけていた部分もあったので、どれだけの実りがあるか、という心配もありました。が、ここでパンフレットに出会ってしまったのが運命と、思い切って申し込み、麹町教会からはなんと1名の参加。東京教区からはただ一人の参加(笑)ということで、逆にホテルに戻ってからは一人というまあ、黙想会に近い状況での参加でした。

参加者は16名。同行司祭は本渡教会の渡辺神父様(元カトリック新聞編集長)、添乗員の方2名を加え、東京と福岡からで、ソウルの仁川空港で合流、という流れでした。

ソウルから、イスラエルのテルアビブへ向かうゲートには、イラクのKardishのカトリックの方々が。
お話を伺い、その過酷な状況に、思わず涙しました。
今のイラクはカトリック教徒にはあまりにも住み難いため、集団でニュージーランドへ移住していて、そこから今回巡礼に来られているとのこと。英語が話せない方もたくさんいらっしゃいました。生活し難いと言う点では言葉がわからないのは非常に辛いことだろうにと胸が詰まります。でも、宗教弾圧による苦しみよりはまし、というその姿勢が、皆様の信仰の真剣さを物語っていました。私たちは日本にいて、カトリックは確かにわずかに4万人という少ない数ではありますが、そこまでの生活のし辛さを味わってはいない。そう思うと、彼等の真剣さには胸を打たれました。

また、私たちがゲートで一旦自由行動になった後も彼等は、ずっとロザリオを一緒にしていました。

早目にひとりゲートに戻って来たのもあって、それをずっと聞いていました。アラビア語でのロザリオの中には、ビスミッラーから始まる祈りもあり、イスラム用語がここそこに織り込まれており、文化圏の交流を物語っていました。アラビア語が分かる耳で本当に良かったと思います。アヴェ・マリアの中に「神」がイスラーム用語で出て来るなど、ずっと聞いていて、「神」の普遍性を感じる瞬間でもありました。

神は、「在る」方であり、始まりであり、終わりである方。「アルファ」であり「オメガ」である方。そこに「アッラー」と呼ばれようがどうであろうが、主は主であるのだ、というのが、その根本。私にとって、それは大きな確信となりました。

1日ずつを振り返りながら、ここで分かち合っていくことが出来ればと思います。


  1. 2012/06/10(日) 10:04:36|
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