Tous les jours Bon Chic

毎日少しでもいいこと探し

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

ラオス便り(6)その2 教育病院と大学

裏ブログに最近は脳内開発(笑)を書いているついでに書いたことを転載。
8月の帰国直後に書いた記事。



帰国前にほぼ1週間、ミタパーブ病院で研修をやった。その前の週に「医師が指導医になるということは、相当な負荷を背負うことになるのだ」と実感したこと、それを変えるための「チーム医療」であるけれどもそれが機能しない限り負担は大きいこと、を身にしみて感じていただけに、自分の研修に向かう思いが今までと違うことに気がついていた。

日本の場合「大学病院」は「大学」に紐づいており、「大学」の職員でありながら「臨床医」であるため、融通が利くことが多いが(ここはその通りかどうか要調査)、この国の場合、4教育病院は突然「大学病院」扱いをされ始めてしまったため、「指導する」と言うことを念頭に置いていた医師は非常に少ない。また4教育病院は保健省の管轄になり、大学の下ではないため、大学に対する義務を負っていない。その状態で「実習生の指導をしろ」と一方的に押し付けられているに過ぎない。大学からの教員が臨床で来ているケースもほとんどない。これはどのような状態を生み出すかと言うと、

・大学側が、教育大学の実習の現状を把握することが困難
・病院側が大学で実施される「教える」ということを見る(真似ぶ)ことが困難

ということであり、双方が双方から学ぶという協調がされないということになる。

しかも、教育病院と大学の距離は非常に広い。広すぎる。研修運営管理委員会に大学の職員が入っているのはセタ病院のみ。というか運営委員会が設置されているのがそもそもセタのみである。そのため、実習生に何か問題があっても大学とのパイプはない、というのが実情。教育病院、とは名ばかりで、結局実習生に「何をさせて欲しい」とか、そういうガイドラインもまともに与えられていないと聞く。10週間で彼らは外科・内科・小児科・産婦人科を回っていくが、大学側との協力関係が非常に希薄なため、病院内で「統一した基準」というのもほとんどないのが現状。これは、TMC(Training Management Committee:研修運営委員会)を設置しているセタですら同じだ。最近になってようやくセタでは「病院としてどう対応するべきなのか」という議論がされるようになってきた。TMCを設置してすでに2年が経ってようやくだ。しかしながら最近(少なくともここ1ヵ月半)、大学側の担当者がTMCに出席しているのを見たことがない。

…これじゃあ、教育病院側の大学へ対する気持ちは離れていくよなぁ…。

と思いながらミタパーブ病院での研修を観察していた。実際チーム医療(Medical Teahing Unit:MTU)の考え方自体は新しいものではなく、2000年にカルガリー大学が導入してから使われてきているものだ。それでも、医師がPreceptor「指導医」になれない、というのはやはり彼らの「意識」が変わる何か、が起こらないからだろう。

実習で各科に対して大学が「何を」学生が学ぶことを期待しているのか、ということの明確なガイドラインと、定期的な巡回、医師とのコミュニケーション。そうした「人と人」の触れ合いがそうした絆を作っていくはずなのに、大学側の怠慢でもあると思う。

ただ、これは私が病院側にいるから思うこと、であるのかもしれないという注釈つきで。

プロジェクトの大先生と話をしてみると、彼(マホソット病院の元副院長、保健科学大学が独立する前のラオス国立大学医学部復学部長)曰く、医師たちは大学の先生方を臨床医だと見なしていない、とのことだ。だが、そういう「教育者」も必要である、と言う点から考えるとそこは「役割分担」であるのだが、医者であるにもかかわらず、臨床に関わっていないということはそれだけ彼らにとってステイタスが低いということなのだろう。

いわゆるCHIPU構想が動いていくには、「テリトリー」とか「ステイタス」ではない「役割分担」と言う考え方が必要になるのだろうと思うがそれが根付く、あるいは「認知される」までにかかる時間は、恐らく非常に長いのではないか。

そう思うと、自分たちのやっていることに対する疑念はもちろんのこと、「人の心を動かすこと」と言うのは非常に難しい、ということを改めて思う。

スポンサーサイト
  1. 2010/09/05(日) 01:35:58|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

ラオス便り(6) シンポジウムの準備と諸々

さて、再びラオスに8月24日に戻ってきたわけですが。

すでに1週間以上経っていて、もうそろそろ2週間なんですが。仕事満載過ぎてそんなに経ってるとは思えないくらい忙しかったです。

今は主に、2つのシンポジウムの計画準備中。

ひとつは帰国前日(!!)に行われる、
「Medical University(医学大学、あるいは大学の医学部)と、教育病院の関係について-タイ・コンケン病院の事例から学ぶ・ラオスの今後について議論する」というもの。

大分前に書いた、「医師は医者になりたくてなったのであって、教育者ではない」という気づきをそのままシンポジウムに持って来て、帰国中にプロマネに企画を話し、通ったものです。教育者ではなくとも、臨床実習はしなければなりません。いきなり人体実験されるわけにいかないので(汗) この国ではつい最近までは臨床実習がほとんど行われず、卒後にやる気のあるFamily Medicine Specialistあるいは研修医、ボランティア医が実習に行く、といった具合でした。

2004年にラオス国立大学から医学部が独立、保健科学大学となってから保健省の管轄に移され、4教育病院が指定されてからが本格実施になったような具合だからです。だから余計に現在のPreceptors(指導医)たちには、実習の必要性が伝わっておらず、日本のように「実習が来るものだ」ということについて、「自分もいずれ指導する立場になるのだ」という認識もありません。

それをどうするべきか。教育者になれ、とまでは言わなくても、今の教育病院と大学のコミュニケーションの希薄さをなんとかしなければ、臨床実習はただの「召使」で終わってしまい、患者さんに不要な不安を与え、指導医に余計な負担をかけ、実習生の期待を裏切ることで終わってしまいます。

このままでは、CHIPU(Complex of Hospital, Institute, Project and University)という、次期5年計画に盛り込まれている、医療人材育成のための機関連携は実現され得ないまま、また絵に描いた餅。

だからこそ、近い立場にあり、言語の壁の低いタイ、コンケン病院から今回はコンケン大学と病院がどのような関係にあり、どのように連携して医療人材を育成しているのかということについて話してもらうことにしたのです。

そして、それを受けて現在のラオスの状況を大学に分析してもらう。それをさらに外部者である、教育病院に入っているNGOから実際について語ってもらい、それを引き継いで「大学はこういう実習をすることでこういう人材を作ることを望んでいるんです」と、大学側から病院に具体的に話す。そして、プロマネに現状から経験と提言をしてもらう。

ここで重要なのは、ちゃんと教育病院側が発言するタイミングを作ること。ファシリテートが大変そうだ。けれど、どこまでできるか。やるしかないですね。このシンポジウムをきっかけに、大学側が教育病院に歩み寄る、教育病院が大学を理解する、ということが少しでも生まれればいいと思います。

そして10月はでかい規模でやります。集大成。私たちのやってきたことがようやく地域に広がりつつあるので、地域医療に今度は特化して、地域医療のための人材育成について、ラオスの医療人材育成について関わっているアクターをできるだけ巻き込んで行います。開発ドナーも、保健省も、県病院(実習生を受容れている)も。このCHIPUというコンセプトが実現されるためにも、ラオス全体のアクターが医療人材育成(特に地域に派遣すべき「医者」、医学部を卒業して卒後2年のFamily Medicine Specialist含め、ちゃんと医療行為のできる人の育成)をどう考えるのか。何をやっていくのか。今までなかった話し合いの場を、確実にまず作りましょう、そこで計画をし、それを実施しましょう、と言うところに最後のPanel Discussionでは落とすことになるだろうとは思いますが、最後の集大成。しっかりがっつりやって来よう、と今張り切っているところです。

…ラオスもあと2回。色々な人と仲良くなり、時には人生相談にのり、こちらも乗ってもらい、酒を酌み交わしながら一緒に話をする。病院の顔ぶれが分かってきたのもあり、何か頼まれ、相談されるとすぐに適切な人物が頭に上るようになる。ここまでやってこられたのも、やっぱりたくさんの人に支えられ、このプロジェクトに付き合ってくれたカウンターパートたちがいて、人と人との付き合い、時にはぶつかっても一生懸命に前向きにやってきてくれた人たちのおかげです。

色々な数値を上げてこのプロジェクトを評価することは簡単だけれども、私個人はそれ以上のものを今得ている。プロジェクト終了の時に、どんな思いをするだろう、と思うと今から断腸の思いです。だからこそ、できるだけのことをしていきたい。毎日それこそ、必死に取り組み続けています。

現場で物事は起きている。MDGsに振り回され、それを達成することを求められているけれども、現場で物事は起きているのです。それを見ずして、そこで素っ裸でぶつからずして、何事も達成できないのです。

  1. 2010/09/05(日) 01:32:09|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

ラオス便り(5) その6 「地域医療」「家庭医」とMDGs

ということで、本題です。

日本でも、所謂「途上国」でも地方に行けば行くほど医師が不足します。
それとミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)とどう関係があるのか。

ラオスとフィリピンのことを色々交えてふと思いついた今朝7時。それを忘れないうちに書いておこう。と。

フィリピンでは、Benguet州というルソン島北の方、Baguio特別市を抱える、フィリピンのサラダボウルと呼ばれる高原野菜の産地で働いていました。高原野菜と言うからには、高地です。そのお隣、Mountain Provinceほど山がちな地形ではありませんが。バギオ特別市は、ちょっと前まで夏になると暑いため、大統領府がそのままそっくりバギオに移ってきたことで特別市として扱われ、ベンゲット州とは別の扱いです。米軍がいたころのキャンプもそこに構えられており、現在はリゾート地として、避暑地になっています。

ベンゲット州自体には13の「Municipality」いわゆる「市」が13あり、それをすべて統括するベンゲット州病院(バギオ市病院も同レベル)それを4つのInter Local Health Unitという単位でわけ、ひとつひとつにDistrict Hospital (郡病院)があります。13の市にはそのひとつひとつにRural Health Unit (RHU)と呼ばれる「保健所」に近いものがあります。その下にはBarangai(バランガイ)という村落単位があり、そこにはHealth postがあり、助産師が駐在しています。

RHUには総合診療のできる「家庭医」が常駐し、医師補、看護士がそれぞれいます。大体ひとつのRHUにはひとりの医師、医師補が2人~3人、看護士は正看護士が3~5人。看護実習生も受け容れています。

ラオスではどうかと言うと、ビエンチャンは首都なので比較はできませんが、4教育病院の他に、103、104などの軍病院がいくつかあり、(県の場合には県病院が県都にあります)郡病院、その下にHealth Post、という構成になっているようです。郡病院は、医師が数名いるとのこと(実際には数回しか行ったことがないので確かなことは)。その下のHealthPostにはほとんど伝統助産師がいるという区分になっているそうです。

で。

ここで大事なのが。

現在、ラオスの医学部は保健科学大学にしかなく、1学年定員100名のところ、Special Studentと呼ばれるいわゆるお金を多く払って入る学生も含めて400名弱いるのではないかとの話です(正確な数字は「誰も」知らない!)。仕方なく、4教育病院だけではなく、県病院にも派遣せざるを得ず。現在のところ、チャンパサック・サヴァナケット・ルアンパバンに派遣されています。(私たちが研修で行くところです)そのほか、現在ウドムサイ、シェンクワンと2つの県に派遣することが検討されており、来年か今年の次のローテーションから加わるのではとのこと。

その他「家庭医:Family Medicine Specialist」という総合診療のできる医師がプログラム卒業後2年、色々な県を回ることになっています。

ラオスのIMR(Infant mortality Rate:乳幼児死亡率)とMMR (Maternal Mortality Rate)はアジアの中でも非常に群を抜いて高く、保健政策では、MDGs 4の、IMR/MMRの減少という目標に向かって何をどうするのか、と言うのがいつでも問題になります。時期第7次5カ年計画の政策策定会議でも大きな問題になったのはやはりそこでした。

そこでいつも、ダイレクトに関係してくるからと、伝統助産師(Traditional Birth Attendance: TBA)を熟練助産師(Skilled Birth Attendance:SBA)にアップグレードし、各ヘルスポストに派遣する、という案がかなりまかり通っています。これはひとつに開発ドナーの声が大きすぎることが挙げられます。SBAは、確かに直接関係する話です。伝統助産師では、なかなか、お産の時施設分娩を促すことにはなりません。

しかし。施設分娩がなぜ良いかと言うと、異常分娩の場合に適切な処置が適切な人材によって行われるからです。異常分娩に限らず、お産には常に危険が伴います。例えば異常分娩の例で挙げるなら帝王切開。これは、助産師にはできない医療行為です。分娩介助だけであれば、施設で行う必要はないわけですから。

また、MMR/IMRの減少は、分娩介助の問題だけには留まりません。
熱帯である国の場合、感染症については非常にセンシティブに対応する必要があります。子どもの死亡理由は何も分娩時のトラブルに限らず、小さい子どもはデング、マラリア、TB(結核)といったもので簡単に命を落とします。初期の段階で診断をし、適切な施設にリファーする、処置をするということのできる人材がいなければ、それは風邪の症状から始まることもあるため、適切に処置されず、結局Health Postでなく郡病院に行った時にはもうすでに手遅れ、ということも往々にしてあります。

前回高校生が来た時に子どもたちが大泣きしている外来に比べ、小児科が静かであることを指摘すると、多くの高校生が顔が変わりました。ここに来る子どもたちはラッキーです。まだ、スペシャリストが常駐しています。そうでないところで何も去れずに死んでいく子どもたちも多くいるのですから。

MMR/IMRだけをMDGsの問題と捉えるのでなく、「地域医療」として捉え、地域に適切な人材を配置すること、そのための教育を行うこと、地域医療に携わる医師のためにインセンティブを上げること、それをドナーが支援していかない限り、難しいでしょう。フィリピンの場合、それをすでに超えて、郡病院がRHUを統括し、リファーシステムを作り、高次病院への照会をどうするのかということを月1回話し合う機会も持たれていました。RHUの医師と、郡病院の医師がコミュニケーションを取っているということです。それはInter Local Health Zoneがあるからできることかもしれませんが、それだけではないはずです。医師と助産師は大きく地位が違うため、話し合うことなどできないのがほとんどのケースですから・・・・

うーん。とりとめなくなってきた。

言いたい事は。MDGsはIMRとMMRの減少だから、と言って助産師。
という短絡的な考え方では先が見えている。
そうではない、そのための人材育成政策をラオスの政府が、開発ドナーに振り回されずに考えられることが必要です。そして。それを助けるのが開発ドナーと呼ばれる我々の仕事であるはず。いたずらに自分のできることだけを押し付けるのではいけないのだと、思います。

  1. 2010/08/05(木) 23:58:54|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:4

ラオス便り(5) その5 「医師」が「指導医」になるということ

先週は、研修の準備をしながら、来賓が立て続けにありました。そこでプロジェクトの紹介をしてくれ、と言われていたため、今までも作っていたプロジェクト紹介用のPPTを急遽リバイスし、高校生用に作り変えたり。

それを聞いてから1週間ほど、ずっと悩んでいました。
何を伝えたらいいのか。うちのプロジェクトは何をしています、と言えば通じるのか。

甥っ子が生まれたこと、相方が怪我をしたこともあって何度か自分のやっているプロジェクト活動を実地の部分で見たりしていました。以前よりも頻繁に病棟を回り、外来を見て、自分の作ったポスターを見て、考え続けました。

なんでうちのプロジェクトはこんなに大変な思いをしてたんだろう。フィリピンの地域医療のときも、アフガンの教師教育も確かに大変だ。ホンジュラスの思春期リプロも大変だ。でも、フィリピンの時は自分の大変さがあったけれど、カウンターパートとの大変さというのはそこまでなかった。アフガンはもうあれは政治的なものだ。ホンジュラスは、どっちかと言えば思春期の子どもたちに場所を作るという、対象が対象だけに大変なんだ。

…そう思いながら、今までのことをずーーーーーーーーーーーっと振り返っていました。
私の感じている、このプロジェクトでのジレンマって、一体何だろうか。なんでこんなにじれったいんだろうか。何がこんなに私にとって、「好きなのに」通じない、という部分を感じるんだろうか。なんで私は、外科のThavone先生は理解してもらえたのに、内科のBunmy先生には通じないところがあったんだろうか。研修運営委員会で感じるぎこちなさは何か。


あ。


「医者」は、医者になりたいんだ。メスを持ちたい。内視鏡操作したい。
そんな人たちに、実習生を教えられるだろうか。

そこだったんだ。


このチーム医療というのは、上に立つ医師が「指導医」として統括していないと成り立たない図式。でも、医者は医者になりたくて医者になった。この国で、特別枠で入らない限り、医者になるというのは大変なことだ。しかも、もともと大学病院として設立されたならまだしも、保健科学大学が保健省の管轄に移された3年前突然4病院が指定され、大学病院になった。大学に学生を押し付けられた格好だ。

それに気がついて、この病院内の施設を思い浮かべる。学生が自習できるところ、勉強できるところなんてない。詰め所もない。症例紹介ができるところも・・・ない。

「病院」を、内側からも外側からも「教育病院」にしていく。

それが私たちの仕事だと、言葉にして明確になった瞬間だった。
1年間、私は「教育」の視点からしか物を見てこなかった。なぜ先生たちは指導医なのにこんなに教えようとしないんだろうか、なんで、そんなやり方しかできないんだろうか。なんで学生が医療行為をするときに気にかけてあげないんだろうか。なんで教える知識(私はその時常識だと思っていた)がないのか。なんで怒鳴るんだ。

…腑に落ちた。

彼らは、医者なんだと。

でもこの1年、その視点で物を見ながらそれでも「教えること」の必要性を、手を変え品を変え、見せて、伝えて、一生懸命にやってきた。そして、それが今、実りつつある。他の教育病院と比べると、うちの病院は格段に学生が勉強できる。格段に先生の目が行き届いている。「この前、OSCE (実技試験)落とした。あんなんじゃ、医者にさせられないよ。心配だ。他のところでも実習してもらわんとな。」という言葉が、研修委員会で飛び出す。「うちの学生、来ないことがあるのよ。どうしたらいいのかしら…」という悩み事に「Pediaでは、1度指導医が呼び出して面接をして見ることにしてるのよね。話してみないことには分からないでしょ、学生が何か悩んでるのかもしれないし。それでダメなら、ダメだけどね(をい、次はないのか、次は!)」とか。今までただ「本当に学生って何も出来ないのね」だった研修運営委員会の報告が変わってきている。

医者が「指導医」になる。

それは「教育者」としての目を持つことだ。
そして、そのためのサポートをするのが私たちの仕事。

今までいくつかの病院で研修を行った。そこでいつも出てくるのが大学への不満だった。そこを越えて、セタは大学と「連携」をしようとしている。今、保健大臣が、その「連携」をポリシーとして打ち出そうとしている。上からの意志だけではなく本当に心から必要だと、教育の目を持った指導医を増やすために、今、私たちのPMELメンバーが頑張っている。不満から、それを伝え、連携へと持っていくために何が必要なのか。

残されたアサインの間。必死に考えたい。

そして…後継案件が出るならそれまでの間このPMEL(Project for Medical Education in Laos)が、何が出来るのか。何を残せるのか。それを一緒に考えて過ごしたい。

教育病院なんです。セタは。
「Khanhien le Khanborikhan - Learning and Service」

あと少し。頑張ろう。全力で突っ走ろう。

  1. 2010/08/04(水) 22:53:18|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:3

ラオス便り(5) その2 終了時評価終了

先週金曜日までは、プロジェクトの終了時評価というやつが入っていて忙しくわらわらしていました。

JICAの技術協力プロジェクトというのは、3年~5年期間のものがほとんどで、
その前後も含め、5回評価の調査が出ます。
プロジェクト期間中は2回、中間評価と終了時評価というものです。

終了時はプロジェクト終了の6ヶ月前に出るのが基本。
色々ありまぁ、多少遅れましたが、先月末から延べ3週間調査が入っていました。
大体の団員構成は、官団員と呼ばれるJICA本体からの評価団とコンサル団員という、
評価専門家が1名配置されます。

彼らの評価は、評価5項目というDAC規定の項目評価にしたがって行われ、
妥当性:援助国及び日本との政策、ニーズとの整合性
有効性:プロジェクト目標が達成されるかどうか(プロ目は、プロジェクト立ち上げの時にすでに決まっています)
効率性:投入(援助において、人、モノ・カネの投入)が効率的であったか、成果に効率よく結びついていたか
インパクト:プロジェクトの活動及び成果が、周辺にどのような影響を与えたか、正負の影響を計る
持続性:プロジェクト終了後、中長期にわたって活動を継続することが可能か

という5項目を、Logical Frameworkという、プロジェクトを一覧できるマトリックスの中で測定し、
それを実際のフィールドでインタビューおよびデータ収集をして最終的に計っていきます。

なのでできるだけ多くの活動を見学し、インタビューを行い…と言ったことをする必要があるわけです。

それもあって、ルアンパバンの研修は後半見に来られ、我々が隔週で行っている研修運営委員会にも参加し、
我々は我々でデータを提供し、ないものは探してもらい、あちこちと連絡を取ってアポを取り、
と、向こうもこっちもハードスケジュールをこなし続けて3週間が過ぎるわけです。
結構官団員には気を使います(苦笑)が、概ねこのプロジェクトは優良プロジェクトであるという自信があったので、
ルアンパバンでの研修活動(カウンターパートが主に指揮を取り、日本人はそれを見て、
 必要があればフィードバックするだけ、と言う感じに成りつつあり)を見ていただけたのは嬉しかったです。

うちは、カウンターパートとの仲は非常に良いのと、プロジェクトのTORを超えても、
これが良いと思ったことは関わって、良い結果を残してきています。
中間評価まで、セタ病院を「出るな!」というTORだったのが、それ以降緩くなり、
保健科学大学とも手を携えていくことができるようになって来ました。
そのおかげもあってこうして指導医研修を、ラオ側のカウンターパートができるようになってきた。
それは本当に大きな成果だったと思うのです。
研修運営委員会も、最初は彼らに強制するためにも週1だったのを、
彼ら自身でスケジュール調整をして、今は隔週になっているのですが、
出席率は格段にアップしているし、話される内容も変わってきている。
先週出たときにそれを感じて、やっぱりヒトはココロで動くものなのだと実感。

この芽を伸ばし続けていかれればと、心から思うのです。

終了時評価は無事終了(笑)
後は帰国報告会に出席するのみ。ああ、怒涛のような2週間が終わった、
と思っていたら、週末にはどんでん返しがあったりするのでした。

  1. 2010/07/12(月) 16:10:05|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

ラオス便り(5) その1 ルアンパバン研修

昨晩、ラオス北部ルアンパバンから帰ってきました。


Google map:ルアンパバン

ルアンパバン

この赤く塗ってあるところがルアンパバン県で、
その下の下にある、ちっちゃいところがビエンチャン県です。

ルアンパバンまでは飛行機で大体40分強。ラオスの古都です。
その県庁所在地は同名のルアンパバン。1975年に共産主義による革命が起こるまでは、王宮はここに置かれ、
ラオス王国の象徴として栄えた世界遺産の街並を有するラオスでも必見(といわれる)都市のひとつです。

んで。そんなところで何をしていたのかと言うと、医学実習生を受け入れる県病院のために、
その指導医たちへ、医学教育研修を2日間ずつ2グループ、4日間開催しておりました。

県病院は中国製(笑)で、消火栓とか、漢字なのでなんだか笑えた。

ルアンパバンの街自体は観光都市化してしまっているので、なんだか・・・。
でも、確かにやっぱりお寺やら、モン族の文化やら、そういうものは非常に良かったです。
ナイトマーケットは・・・正直観光化しすぎ。そういう意味ではつまらなかったです。

もっと現地のものが見たかったですね。
ってことはTalat Phusyに行かなければいけなかった・・・で、そんな暇はなかった、と(笑)
街自体は非常にフランス植民地時代の面影を残していて、フランスより往時のような風情でよかったです。

(これを書いたのは4日。すでに1週間が過ぎている・・・)

色々、この後のことはまたおいおい・・・。


  1. 2010/07/04(日) 13:09:13|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

ラオス便り(4) 総括:プライベート編

今回のラオスは、限界に近いくらいに忙しく、ブログをアップする暇がなかったので、総括です(笑)


ラオ人化政策は現在進行形で実施中です。
が・・・ちょーーーーーーーーーーーーーーーーっと最近複雑な気持ちになりつつあり。
直ボスのねー様が歩いていると、みなさん、気がついて手を合わせて「サバイディー」とやるわけです。
プロジェクトのプレゼンス、高まるわけです。

私が歩いてても、だーーーーーーーーれも気がついてくれないわけです。

日本人がいること、誰も気がつかないわけです!!!

・・・いーんかいな、それで!!!!!

と、ちょっと嬉しいような複雑なような。

今回の目玉エピソードは2つ。

1)Mayte,無視される
 ビエンチャン市内のでっかい病院で研修をやりました。
 副院長、挨拶に来ました。うちの団員が固まってるところへつかつかつか・・・。
 男性団員2名に「ハロー、ハロー」と上機嫌で握手。

 ・・・あれ?私は???

 ま、いいや、としばらくそこにたっていると、おかしいと思ったのか、やおら振り向き
 
 「…サバイディー?」

 やっぱりナショナルスタッフだと思われた・・・凹。
 副院長、必死に言い訳。いや、あまりに着こなしがローカルっぽいから、とか・・・(笑)
 後でたっぷりネタになりました。

2)「サバイディー、プーサオ」
 病院の食堂で、そのショックも覚めやらぬ翌日。ご飯を食べておりました。
 そうしたら、麻酔科の先生がてけてけと近づいてきて、「ハロー」「サバイディー、アジャン」、と
 うちの総括とおとーさん、それと大先生(ラオス人)に話しかけました。
 しばらくしゃべってから、私を見て
 「サバイディー、プーサオ」

 日本語にすると「こんにちは(あら)、お嬢さん。」的な感じで、
 明らかに日本人にはかけない言葉です。大先生の娘かなんかと勘違いした様子。
 大先生、怪訝な顔。総括とおとーさん、「あ~まただよ(笑)」と言う顔。
 
 沈黙3秒。

 「Jao bor kon Lao bor?」(ラオス人ではないのですか?)

 総括、耐え切れず、大爆笑。おとーさん、失笑、大先生、軽く失笑、私、唖然。

 ・・・その麻酔科の先生、慌てて言い訳。 その後大爆笑。

3) 「日本のパスポートなんですけど」
 入国管理のイミグレ。ラオスのスカートは穿かずに行きました。
 いつものように「サバイディー」とパスポートを出すと、「サバイディー」と返されます。
 ・・・隣の係員が、時間がかかるのを不審がり、

 「ラオ人じゃないのかい?」

 私側の係員が、「いや、違うよ」「でもラオ語話すぞ」
 係員、私のパスポートを上げて見せる。それでも「同じ顔してるじゃないか」

 ・・・生まれつきです、この顔は。ほっといてください。

 私に話しかけてきて「ラオ語話せるんだよなぁ」「少しですが」
 「ラオ人のオトコはいいやつだから、結婚したら幸せになるぞ。」


 ・・・ここは入管ですか、それとも結婚相談所でしょーか(汗)

と・・・まぁそんな3週間のデキゴトでした。

  1. 2010/06/14(月) 01:25:30|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

ラオス便り(3) その3 番外編

カテゴリはここじゃなくてもいいんだけど。

わたしは、幸せになる権利があって、
そしてそれは、遠慮するものじゃなくって
幸せになっていいのであって。

だから、どんなに色々なことにぶち当たっても、一生懸命に頑張ろう。

ラオスから帰ってくる飛行機の中で、ともすればこぼれそうになる涙を抑えるために、
ありとあらゆる手を使って自分をラオスから引っぺがした。

今回のアサインは実に色々なことがあった。
めまぐるしく毎日が過ぎ、忙しく、忙殺される、という言葉がしっくりくるくらいで、
その中で気持ちも非常に激しく浮き沈みし、ぶつかり合ったりもした。
コンサルタントというものの「なりたい像」というのを非常に考えたりもした。
その中で、わたしはどういう実務家でありたいのかを、頭をひねって考えた。
わたしにとって、コンサルとして、女性として、目の前に問題が突きつけられた1か月だった。

日本人の同僚と過ごすことが多く、ラオ語が伸び悩んだ(苦笑)
けれども、再び伝説を作り続け、ついには

「何県出身?」

…とトゥクトゥクのにーちゃんに聞かれるわ、
ノンカイから帰ってくるときに、3人で7万キップでミニバンに乗っちゃうわ、
ノンカイのテスコから国境に戻るときに「あの2人は日本人観光客だね」って残りのわたしは!?って。
シンを6ドルで買う!という荒技も。
日本人集団とご飯に行くと、店員は必ずわたしのところに来る、とか!

…相変わらずラオ人突っ走っています。

でも、もっともっとラオ語を話せるようになりたい、という時期に入ってきました。
頑張ろう。

コンサルタントとして。

コンサルタントとはどうあるべきなのか。このアサインで考えたことは多くありました。
相手の気持ちを引き出す、聞き出す。そこから、何をどうしたいのかを聞き出す。
すべてはそこからだと、わたしのありたいコンサルの姿を再確認。
そのためにはどうしたらいいのか?
すでに「できあがって」、目標も定められてしまっている技プロで、
コンサルテーションをどう行っていくのか?
コンサルテーションとはカウンセリングとある意味同義なのではないか?
案件形成にしてもそうで、その案件が作る価値があり、本当に求められているものなのか?
ドナーの意思を押し付けるものではない、と言い切ることができるのか?
ではそういう案件形成をするには、どうしたらいいのか?

最初コンサルになる気のなかったわたしが、案件に入り、海外に出るようになり、
もう3年が経ち、ようやく先輩方の足を引っ張らずに業務をこなせるようになってきた。
「言わなくても動いてくれる子」、「仕事をしてくれる子」(子?)として、
いくつかの案件で、わたしをほしいと言ってくれるPMも出てき始めた。
若いうちにこうしていくつもの案件に入らせてもらい、役を付けてもらえるのは貴重。
しかも、保健医療のプロジェクトでも教育職で入れてもらっているし、
PMも、一緒に議論をしてくれる、という幸運。
その中で芽生えてきたコンサルタントとしての自覚、ドナーとしての責任。

某機構専門家

この名前を背負っている以上、ドナーとしての政策、名前、そういうものがついて回る。
それはこの業界でどこかの機関に所属する限り変わらないこと。
その自覚が、役付きになって、貼りつく期間が増えて、ドナー会合にも出て、芽生えた。
いちドナーとして。コンサルタントとして。専門家として。そして日本人として。
この国で働くという責任を、考えなければならないのだ。


女性として、というよりわたし個人の幸せも、考えた。
多分、仕事として、自分個人として、どう生きるかということを、
怒涛の中で考えられたのは多分このラオスという地でだからこそだと思う。

・・・ところで、本当に休む暇なくホンジュラスです。

身体が持たないよー。

  1. 2010/02/07(日) 01:34:36|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

ラオス便り(3)その2 式典続き

こっちに来てから何か知らないけれど、式典やら大きな会議やらが続きます。

先週の土曜日は、結婚式の披露宴にお呼ばれ。
昨日はうちの病院の院長先生交代パーティにお呼ばれ。
ついでに同日、某機構の専門家会議に出席。
来週は保健省の会議に出席するので、ナムグム・ダムまで出張予定。
よさ目のシンを作っておいたのが功を奏しました。

さすがにスカーフはしなかったけど、シルクのクロッチを慌てて買ったら、
やっぱりみんなちゃんとそういうものを持って来ていた…。
…非常用にそういうものも持って来ておいたほうがいいのね…。

結婚式はそれはそれは派手やかでした。何人おんねん!!!
というくらいの大人数を呼んでいて、恐らく300人くらいはいたのでは!?
花嫁さんの家の近くの空き地を会場にして行われるのですが、
料理等はすべて親戚が用意するとのこと・・・ってケータリングじゃないんかい!
入り口には大きなハート型のアーチがかけられ、そこにお呼ばれありがとうのお金を入れる壷が置いてあります。
そこに、招待状の袋にお金を入れて入れるのですが、私ナンと忘れてしまい、
一緒に行ったお友達の袋に便乗して入れさせてもらいました。

そして、そこで、花嫁から、ラオラオ(ラオスウォッカ)を供されます。
できれば飲むのが礼儀らしいので・・・遠慮せずにいただきました。ぐいっと。
喉が焼ける!と思いながら、初ラオラオ。結構少量だといけます。
招待してくれたのが花婿さんの弟なので、花婿さん側の席に着いて、みんなでわいのわいのと。
弟さんは、ホスト側なので、ビアラオをついで、ひとりひとりに回します。
ホスト側、あるいは目下の人間が、そのテーブルのホストとして、みんなにお給仕するのですが、
ビールをついで、飲み終わると、グラスを返してもらい、次の人についであげる、
ということを繰り返すのがラオスの習慣。私にも回ってきましたが、丁重にお断りしました。
同じテーブルの他のオンナノコたちが呑んでないのに、私が呑むのも気が引けたので(苦笑)

ラオスの場合は婿入り婚なので、結婚式の準備は花嫁さん側が持つとか持たないとか。
お婿さん側に日本人が来てる!ということで、弟君に連れられ、あちこちにご挨拶に。
英語よりフランス語が役に立ちました…。やっぱりさすがもとフランスの植民地だけあります。
そこでは、今度は私が一応年齢として目下になるので、招待客でもお給仕をします。
まぁ、そこには色々ここには書けない理由があるのですが(笑)、目下なので。
慣れないながらもちょっと頑張って挨拶回りをしてみました。なかなか面白かったです。

どこにでもあるのが、ダンス!
こちらのダンスは、タイのダンスに似て、手をそっくり返しながらひっくり返し、
足は単純に、右トン、左トン、で輪になって進むフォークダンスのような感じです。
これを最初に花婿と花嫁が始めて、それを近しい親戚が参加し、さらに一般のお客さんが続きます。
何度も踊ったことはあるのでできるのですが・・・恥ずかしくって最初は踊りませんでした。
がっ!
引っ張り出されたので最後には踊りまくってました。
弟君のおじさんとも踊りましたし、友達とも踊りました。
弟君の妹さんに引っ張られて、なんかわけわからん・・・なんだ、サルサか!?みたいになったり。

結局何処の国も、あまり結婚式を「すごいものにする!」という意気込みに変わりはないのですが、
やっぱり文化的背景があるので、衣装とか、お酒の順番とかは、見ていて面白いと思います。
バーシーという伝統儀式を見られなかったのが残念ですが。

そして、昨日はセタティラート病院の院長先生交代で、式典があり、
我々は病院関係者のパーティにご招待いただいて、ランサーンホテルで・・・会食。
あまり強くない姉さんが、ラオラオをいただいているのを横目で見て、心配して、
「わたし・・・のみま~~~す!」・・・。姉さんを倒れさせるわけに行かない!
というミッション発令。頑張りましたよ。呑んだし、踊ったし。
挙句の果てに、上を向いて歩こうを歌いました。
・・・うたったんだよ~~~~~~~~~~。
SUKIYAKI! 歌え!ってみんなから言われて。・・・う~~~。

踊ったし、歌ったし、呑みました。

こっちでは女性が男性にダンスを申し込んでも良いようで、
女性のドクターが、男性のドクターに、手を合わせて「踊ってください♪」とやっているのを、
たくさん見て、結構びっくりしました。ありなんですね~~~~~。
私はラオ人女性ではないので(笑)やりませんでしたが、今度はやってみよう。

ねーさんは結局ほぼふらふら状態だったので、「帰りたい」と言ったタイミングでタクシーに乗せて帰し、
我々も解散と同時に、バイバイ。
「歌素敵だった~」というお声と一緒にお花をいっぱいいただきましたので、
おとーさんと分けて持って帰りました。バラ数本、今ドレッサーの前で咲いてます。

いやー・・・。
式典続きだと、呑み続き+踊り続き。
…筋トレなんてしなくても?というのは嘘。

さて。明日はタイのノンカイへ行きます。
頑張ってトゥクトゥク、安くしてもらおうっと!




  1. 2010/01/17(日) 01:43:23|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

ラオス便り(3)その1 ラオス、Ma Leeeo!!!!

Sabaydee Pimai!(あけましておめでとうございます)

6日にラオスに戻って(!?)参りました。
久々のラオスは、非常に珍しいことに、最初からほぼ最後まで、誰かといることに。
・・・こんなの初!

ってわけで1週間経ったのですが、人といると雑談が多くなる=集中力が…。

今回は直ボスな姉さんと一緒にラオスに入っております。
そのせいか、ラオスラオスしてないんだよな。
一人でいる方が、やっぱり勝手にあちこち行くので。

けれども、こうして姉さんと入ってみると、姉さんの色々なところが見られて面白い。

とまぁそんなことをしていたら、先週末はラオスの結婚式(披露宴)に出席。
…高いシンを1着、ちゃんとスカーフつきで作りましたよ(笑)
ラオ語はますます磨きがかかってきて、人称代名詞複数形を覚え、
会話が少しずつ成り立ってくるようになりました。
よし。もっと頑張るぞ。

…姉さんと歩いてると、やっぱりラオ人通訳に思われる(笑)

やっぱりラオスはいいねぇ…


  1. 2010/01/15(金) 02:07:14|
  2. Laos 2009 -2010|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。