この仕事を始めて多分初めて。それどころか多分、思いつく限り初めて、「自分のため」だけの旅に、29日から出ます。行き先は、イスラエル、ヨルダン。
聖地巡礼の旅へ。
思えば、患ってもう8ヶ月です。発症してからは8ヶ月半、いや、もっとかな。
ようやくここまで辿り着いた。
その自分のために、誕生日プレゼントで、聖地への巡礼を贈ることにしました。
苦しい時にはどん底にあり、祈れず、十字架の前に座ることも出来ず、座っても空っぽで、まさに「暗夜」を歩いていた私。テレーズは「まだあなたは倒れては行けないのよ」と、アフガニスタンまで出張してその信頼を強くし、私を立ち上がらせ、支え続けてくれました。でも、日本に戻ってから少しずつ身体は変調を来して行った。それに気付いて、赴任先から帰国して、苦しくて、悲しくて、こんな状態になぜなって行ったのか。何も分からず、ただただ苦しいだけの日々を送っていた私。そんな私の奥底で、ゲツセマネで血の汗を流して祈ったイエスが、私を想い、祈り続けていました。私が、この魂を無くさぬように。おん父に、どうか私がこの苦杯を飲まなくても済むように、けれども「御父のご意志が」行われるようにと。
イエス、私はあなたに会いたい。
あなたが生き、あなたが死ぬために歩いた道を歩きたい。
あなたを見たい。あなたに会いたい。
あなたは今も私とともに私の奥底に居られ、こんなごちゃごちゃしたうざったいものを全部取り払ってそこにおいでになられる。けれど私はあなたが見たい。あなたに会いたい。病に冒され、もうすべて投げ出したいとすら思った私のために祈って下さったあなたに会いたい。
あなたを見なくてもあなたを信じられる私は、確かに使徒トマスより幸せかもしれない。けれどイエス、私はあなたを見たい。心の中に居られるあなたに触れ、抱きしめ、抱きしめられたい。その十字架のもとに留まり、そのみ顔を見上げ、あなたの苦しみを頂きたい。
私はだから、心の中に居られるあなたの地上での故郷へ、あなたとともに里帰りします。
あなたの地上での生涯を思い、そして、聖母にこの生涯を奉献すると誓ったこの心を新たにするために。
イエスよ、私はあなたの地上での故郷へ、旅します。
あなたの霊を心に宿して。
- 2012/05/17(木) 21:43:30|
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おかげで、待降節、四旬節、復活節と日本で迎える事が出来、自由にごミサに与る事が出来るようになったのは、本当に有り難い事だと、つくづく思います。
四旬節中は、恵みの雨に晒され、心身ともに神の言葉に養われ、心を新たにして行く事が出来ました。
ご復活を迎え、四旬節中の緊張が一気にほどけて若干燃え尽き気味なところがあるのですが、これもまた厳しくしても行けないと、なすがまま、己の身体の状態に素直に、心だけは神に上げていたいと思っている昨今です。
聖務日課も今週は少し怠りがちでしたが、明日は聖書研究会にごミサの後出席します。楽しみです。
今年は、聖木曜日は府中で、聖金、復活徹夜祭は北町で、復活の主日ミサはイグナチオで与りました。
嬉しかった事が、昨年の震災で折れたイグナチオの鐘楼の十字架が、つけ直されており、
復活の主日に上を見上げた時、主の十字架が、そこにあることが本当に主のご復活を祝っているような
そんな気持ちになりました。
身体は聖木から走りっぱなしで、ちょっと疲れています(苦笑)そもそも夜のミサに出かける事自体が疲れる事なのですが、でも四旬節の典礼に与れる。嬉しかったです。
今年の典礼は私にとって、とても大切なものとなりました。
今年の四旬節は、大斎、小斎を1度も欠く事はありませんでした。ひとえにこれは、母の理解と、私への愛情によるところが大きかったと思います。カトリックの幼稚園に入った3歳の時。聖櫃のなかに居られるイエスへ惹かれた6歳の時。そして、明らかに聖三位一体の神秘を知った10歳の時。母は私のイエスへの惹かれ方に恐れて、私を日曜学校から遠ざけましたが、カリタスのシスター方から私を引き離す事は、できませんでした。11の時洗礼を受けたい、と言って許可されず、18歳までじっと我慢をしました。お茶の水のICCでカトリック用の聖書を買った事、吉祥寺の本屋さんでデ・スーザ神父のご本を買い、慰めとした事。クリスマスの時には、馬小屋を用意しました。18になって、荻窪教会へ行った事が母にばれ、家中が大パニックになったあの日。私は、「主の時」を待とう、と決めたのです。そしてその11年後。イエズス会のバリー神父様の手によって、洗礼の秘跡を受け、「幼いイエスと尊い面影のテレーズ」と、愛するテレーズの修道名をそのまま頂きました。その直後、アフガン復帰が決定し、ご配慮によって、堅信の秘跡を1年早く受けさせて頂き、「マリー」という堅信名を頂きました。そしてそのどちらにも、両親は、来てくれませんでした。悲しかった。でもそれよりも、今は主と共に歩むのだと、聖香油を額に塗られて、しっかりと心にもその十字架を頂いたことを、嬉しく思いました。
イギリス時代、灰の水曜日に灰に与った時、その灰を捨てるに忍びず、ティッシュで拭き取り、それを持ち歩きました。今年も、前髪で隠し、コットンで拭いて、持ち歩きました。
そんな私を支えているのが、祈りである事を、母がおぼろげながら理解しつつあること、また、その私が、確かに信仰の上に立てるようにと、私の戒律を守れるようにと配慮して、金曜日は昼は、健康のために全く抜くことはできないのでダイエットシェイクですませ、朝は父のために、肉が出ますがでも私の分は用意せず、夜は魚にしてくれ続けました。この大斎、小斎を守っている、という喜びが私を支え続けた原動力でもあった、とはっきり言う事が出来ます。
灰の水曜日、額に灰を頂き、「福音を受け入れ、回心しなさい」と言われます。イグナチオでは、四旬節は、Ashesを閉祭の歌で歌います。
We rise again from ashes,
from the good we've failed to do.
We rise again from ashes,
to create ourselves anew.
If all our world is ashes,
then must our lives be true,
An offering of ashes,
An offering to You.
意訳:
私達は灰の中から甦ります。
失敗したたくさんの善意の中から。
私達は灰の中から甦ります。
私達を新たにするために。
もしこの世界がすべてちり(灰)であるならば、
私達のこの命は真実なのです。
私達はこのちり(灰)をあなたに捧げ
私達をささげます
We offer You our failures,
we offer You attempts;
The gifts not fully given,
the dreams not fully dreamt.
Give our stumblings direction,
give our visions wider view,
An offering of ashes,
An offering to You.
意訳:
私達は、私達の失敗をあなたに捧げます。
私達の受けた誘惑をも。
差し上げたかったけれどもできなかったこと
夢見た事けれども、全う出来なかった夢も。
私達の躓きに道を示し、
もっと広い世界を見せて下さい。
私達はちり(灰)を捧げ、
私達を捧げます
この歌ほどの慰めは、ありません。失敗したとしても、その善意だけで主は満足される。
だから失敗すらも、あなたに捧げます。
この気持ちは、この先いつまでも持ち続けていたいと、この10月からの心身共に経て来た苦しみの中で、得たもののひとつでした。祈る事の出来ない私の中に、主のペルソナのひとつである聖霊が私のために祈り続けて下さる。私の失敗すら、その祈りによって新たにされる。それを知った四旬節でした。
そして。この四旬節の業を全うさせてくれた両親。私が元気になれるならばと、これで心が安らぐならばと、心を砕き、それこそ聖ヨセフと聖母のように、私を支え、信仰の上に確かに立たせてくれたその両親。確かにキリスト教の信仰は、彼らにはなくともそこには確かに、聖ヨセフと聖母の姿が、ありました。私の思い上がりを打ち砕くその愛の深さとに抱かれたからこそ、の日々だったのだと思います。
聖金に読まれるイザヤの預言(52章13節〜53章12節)は私の胸を打ちます。
洗礼直後、私は私もイエスをピラトに渡したユダヤ人の一人と変わらない、という罪の意識で秘跡に近づく事が出来なくなりました。私の罪を背負い、私の過ちを背負い、その身ひとつで十字架につけられた最も聖なる生け贄、神のひとり子にして主なるイエス。その罪の重さは、私を押しつぶしました。堅信の時に受けた「私があなたを選んだ」の言葉によって救われ、新たに歩み始める事が出来るようになりましたが、この箇所を読むと、いつもその時の想いを思い出します。主よ、あなたはどんなに孤独で、どんなに悲しく、どんなにお辛かった事かと。あの時は十字架のもとに留まる勇気がなかったけれど、今なら、違います。私は傲り高ぶっていた事を、知らされながらも、恵みによって養われていたと、主は教えて下さいました。
そして主は主の正しい時に正しい人を送り、聖霊によって語られるのだと言う事を、何度も思い知らされました。
府中教会が聖家族教会だったのも、何かの導きだったのでしょうか。
復活節第1週は、身体もえらかったし、疲れも出ました。ミサにも慌ててすっ飛んで行く事がほとんどで、福音を読んで行く事が出来ませんでした。でも、それでも、ミサには出ることができました。
ご復活、最後になりましたがおめでとうございます。
今週は大分えらい週でしたが、来週からまた、Through Him, With Him, In Him, 生きる事が出来ますように。
まずは、今日、Devine Mercy とテレーズのNovenaをして、寝る事にします。
おやすみなさい!ご復活おめでとうございます。
そして
主の再臨を待ち望みながら。
- 2012/04/12(木) 23:08:44|
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Nowroz Mubarak! アフガニスタンは、1391年の新年を迎えました。
アフガン暦は、ヒジュラ暦とも異なり、ペルシャの暦を使っているので、
所謂ヒジュラ「太陽暦」と呼ばれるものです。今年も、Nowrozがやって来ました。あれから1年。
あれからどんどん悪化して行く治安と、人々の葛藤を思うと心はとても重くなりますが、
だからこそ。皆が良い新年を迎えられた事を祈ります。
チューリップが今年も飾られたことでしょう。
ナッツとドライフルーツのシロップ漬けのフルーツポンチが振る舞われた事でしょう。
みんなが、元気で、明るく、そして心の平和な年となりますように。
- 2012/03/22(木) 22:31:40|
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昨日、親友のひとりと、がっつり電話でお話をした。
そこでの気付きというか、自分の中で沈殿していて、分かっていたけれど表層に出て来なかった想いが、彼女と話をしていると、きちんと表層に具体的な言葉として出てくるのが心地よい。
「選択している」ということ。
「他人」は、「自分」ではないのだということ。
でも、自分の鏡でもあり、またそれによって「どうすればやりやすいのか」
をきちんと考える「きっかけ」をくれる存在でもあると言う事。
自分の価値観はそれであるのだけれどもそこに「正しさ」は存在しない事。
それだけで、すごく、すっきりとした。
私は、私が「いま、ここ」を、やりたいように生き易いように生きて行く事が「幸せ」のための道なのだと言う事も、言葉にすると簡単だけれど、分かる。
他人への期待、とか、自分への期待、とか。それは「今」でない時間を生きている。今でない時間を「生きている」って、なんだろう、って思うかもしれないけれど、「今」を生き続ける事が、積み重ねになり、私を形作って行く。
さらりとした心になれた。
代母さんとの分かち合いも、とても大事なものになった。私たちの奥底には、堅信によって「神の息吹である聖霊を受けなさい」と、聖香油を塗られたあの日から、聖三位一体のうちのペルソナのひとつである聖霊が、神の息吹を私たちの中で息づかせている。その聖霊といつも繋がり続け、耳を澄ませて行く事で、私たちはまたひとつ、聖性への道を歩み始める事になる。それは「自分」が「完徳への道」をたゆまず歩み続けて行くことであり、神と自分とのそのUniqueな関係性をつねに生き生きとした活気溢れるものへと変えて行く。
私が祈れない時でも、心の奥底で聖霊は私のために、ゲツセマネのイエスのように祈り続ける。
四旬節、「愛と奉仕」と言われるが、「愛」はすべての源。愛が無ければ、どんな偉業も無に等しく、神の目には塵と同じ。だからこそ、すべての行動で己を振り返る。「愛を持って生きているか」私の言葉には「愛」が存在しているか。そう思いながら、人と接する。
金曜日ごとの小斎と大斎を行い、十字架の道行きを行いながら、「愛」は「与えるもの」であることを、思い起こす。私たちも日ごとに新しくなり、新しい命を頂き、歩んで行く。その先に「死」は必ず訪れる。死とは、終わりではなく「永遠の命」への入り口。見えなくなり、触れなくなる事、会話できなくなる事で、失ったと思うけれども、では、私たちの中に居る「イエス」は?「在り続け、終わる事の無い」存在。そのみ手に抱かれる魂たちもまた、同じ。
身体が思うようにならず、行動制限もあるなかで、今一番、何を優先して行くべきなのか。祈りの中に見いだす。
そうした時、心をクリアにし、己の内側を見つめる。己の中に居る第3のペルソナである聖霊に、己を明け渡す。そうすると見えて来る、「今、ここで進みたい方向」。呼ばれている道。その招きに応え、歩む喜び。
真摯にそこに向き合い、己の内側で、いつも私とともにあり、わたしのために祈り続ける聖霊とともに、そこに繋がることは「本当の自己」に繋がる事になる。そこには「愛」があり、「正しさ」は存在しない。
その心を日々、その命を朝ごとに感謝しながら。
教会の祈りの「寝る前の祈り」を唱えて、明日へ備えます。
明日の命、新たに与えられるのであればその命を、「今その時」を生きるために。
神に感謝。
- 2012/03/21(水) 23:01:14|
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色々な事が、心を駆け巡る。
コーラン消却事件といい、今回のカンダハールでの乱射事件といい。
アフガンに関わり始めた2007年1月。そこから、心がアフガニスタンからはなれる事はなかった。
愛する国。私の誇り。私の「古き良きアフガニスタンを知っている人が生きているうちに、またThe Kite Runneの美しいカブールを取り戻したい」という願いは、届かないのだろうか。
初赴任直後任された、サイードジャマルディン教育大学の実験校の実態調査。持って帰った情報は、N大の先生方から「さすがIOE出身」と褒められた(笑)スタッフたちとはインド映画好きにしか分からない話題が溢れた。Kabhi Alvida Naa Kehena(さようならは言わないで)を、Hameedが別れ際「これから岡本さんは「Kabhi Alvida Kehena」なんだね」と言った。最初、隣で「ど」緊張していたRafiが、Faanaの曲を使って「Kadaksing」の隠喩で二人で笑った。それはちょっとずつ広まって行った。Rafiが「どういたしまして」を最後まで言えず、「どういたしました」になるので「て」を強調していたら、そのうち、それがジョークになって、「どういたしまし「て!」」と言うようになった。Sulaimanが、私が好きな映画のVCDを必死になって探して来た。Ya Aliを歌った。Tuhi Meri Shab Haiを歌った。Pretty WomanをSRKバージョンで歌い、私だけが車に乗っているとなぜか、Bollywoodの歌が流れた。私のChanda Chamkeには、誰もついて来れなかった(笑)仕事になると、みんな目が変わる。このTeachers' Guideが、アフガニスタンの教師の未来を変える「かもしれない」から。ダリ語、パシュトゥン語。スンニ派、シーア派。新しいカリキュラムの把握、教科書の入手、教育手法の検討。頭の中は痛い(苦笑)けど、それ以外のところでも、たくさん話をした。Rafiは帰るとき、そっと共有しているランプを私の方に向けて「仕事し過ぎないで」と、一言声をかけてくれて帰る。離れている間も、馬鹿ジョークを言い合い、ずっと思って来た。1万人の小学校教員が、その年、TGの研修を受けた。
2度目に入ったのは、3年後だった。そのとき、誰かがDekho Naaを携帯の着信にしてて、Hameedだった。奥さんからの電話は、Dakho Naa。と思ったらどこかでMitwaが流れていた(笑)全部Kabhi Alvida Naa Kehena。KANKは、なぜか3年遅れでうちのオフィスで流行っていた(笑)因に私の携帯の着信音は、Nancy Ajuram(レバノン歌手)だった(笑)なんだ、そのギャップ(笑)Farhadは相変わらずきざだったし、無口だったZiaはパパになり、なんだか雄弁になってもいた。新しいスタッフもたくさんいた。でも、みんな同じ弟のような存在だった。公私混同はしないし、仕事には思い切り厳しい姿勢でいかないと、ただでさえ3倍くらいの時間が何をするにもかかる国。でも、交わす会話が楽しかった。Naserが突然、「おちゃいかがですか?」って日本語で聞いて来たり、みんなで仕事後バレーボールしたり。どこの土方のおっさんやねん、ってくらいみんながランニングになって走り回るのが、楽しかった。
そこからどんどんアフガンに入る事が増え、長期になり。
プロジェクトを掛け持つようにもなり、地方にも3回行った。なぜかどこでもアフガン人(ハザラ人)扱いされた(笑)。女性、未婚、まだ「若い」(え?)。不利な条件の中、必死に頑張った。Team Mazar、マザリへ2週間一緒に行った5人は、私がマザリの事務所を「朝6時から夕方6時まで使わせて下さい」と言った瞬間、凍った(笑)それから「6 to 6(シャシュ to シャシュ)」が合い言葉になった。でも、誰も一言も文句を言わなかった。笑いと、根性と、「若さ」で乗り切った。Hameedの身に危険が迫ったこともあった。現場判断で退去、プロマネには事後報告だったけれど、それで正解だった。行くところ行くところで、Phase 1で作ったTGを活用している教員としていない教員の授業を、一気に見てその場で、彼女らの「授業計画」を分析、書き上げるところまでやっていった。その結果プロジェクト今までの成果も、問題点も、「教育専門家」としての視点から見る事が出来る自分に、「まだ大丈夫だ」と自信を持った出張でもあった。「評価の観点がどこにあるかが、分かって教えているか」。TGが実際に生徒の理解度に、貢献している、と感じた、本当に感動する瞬間だった。安全だからと武装警護なし。どこで何が起きてもおかしくない中の仕事。北部は安全とは言え、3年の間に、カブールは空港を出てから感じる空気が違うことが分かるほど変わっていたから、緊張もしていた。5人の結束と、バックアップは、心強かった。Phase 1から共にしているジョーク相手でもあるRafiは、チームリーダーとして最年長ではないのに全員を引っ張った。時には5時半に事務所に来てくれる事もあった。「リーダーは、他の誰よりも働かなければならない。それが他の仲間を励ます事になる。まいてさんは俺らの誰よりも早く来て、誰よりも遅くまでいる。だったらアフガンのチームの中で、俺は誰よりも、まいてさんに続かなければならない」二人になったとき、彼はきっぱりそう言いきった。Naserは「お茶汲み」から始まったのに、英語の理解力は劣るものの、誰よりも細かく走り回った。テストの採点も、ビデオ撮影も。他の仲間から、時には「お茶汲み」扱いされても、文句のひとつも言わなかった。誰よりも寡黙だけれど、ビデオ撮影では、誰よりも私の意図を言葉ではなく、心で読み取った。Hameedは、自分のプライドを私に折られても、チームを想い、文句を言わなかった。そして、バックアップにしっかり徹した。最後の最後まで、ビデオカメラを担ぎ、自分の力を発揮した。命がけの仕事も、こなした。Safiも、静かにけれどもチームをしっかりとサポートし続けた。Naserに指示を出し、自分の分だけでなく、人のものも見た。Omidは、最後の最後まで自分のMissionを追求し続けた。粘り強く、どこまでも、追い続けた。何度も州教育局へ足を運び、そして、必要な情報を私たちは、得る事が出来た。今まで、こんなにはっきりと書類の形で得る事が出来なかったものを、しっかり手に入れた。Afghan Name, Maquboulaという名前もこの時つけられた。行く先々で、女性教員たちと、「男はダメよね~」とか、Lady's talkで盛り上がったりもした。そして、tiki tikiも(笑)。
美しいブルーモスク。シーア派の聖地、アリーの眠る地。

今や、北部も危なくなっている。
そして、その後もマザリへ別のプロジェクトで、冬に戻ったりもした。「成人識字」教育の中で、何が必要で、喜ばれる事なのか。「SMSが打てるようになった!」を聞いた瞬間、びっくりしたりもした。考えても見た事が無かったから。私たちの常識は、紙の上のものだったのだと、思う事も多かった。いわゆる「機能的識字」は今はあまり議論されないが、現場ではそれが必要なのだとも痛感した。同時に、「機能的とは何か」をも、考えなければならないと、深く、深く思った。SMSが打てる。考えた事も無かった。
公衆衛生のプロジェクトで入るようになってからは、現場に行くのに武装警護が必要になって行った。見た目にも、ホルスターを持ったいかついSPがついていると目立つ。良いのか悪いのか分からないまま、各保健所を回った。設備の酷さ、検査の装備のひどさ。結核の検査キットは使用期限が過ぎていたし、DOTSもちゃんとされていなかったり、主要な薬が揃っていないところ、保管が適切でないところ。これを整備して行くのか、と思ったら気が遠くなりそうだった。新しい仲間と、新しいプロジェクトへ。心機一転しなければならない中、目が回りそうなほど、道は遠く思えた。
政治的な介入、選挙直前だということ。状況は日々二転三転。
でも、5年の人脈は、伊達じゃなかった。義理人情に熱い日本人と同じく、国営教育テレビの局長が、ちゃんと助けてくれた。苦しいとき、繋がっていた人たちが手を差し伸べてくれた。人と人の間で苦しみながらも周りはにわかプロマネ代理の私を、支え続け、守り立て続けてくれた。古い仲間にも幸い再会し、教育省ではダリ語が必要だったために学んだダリ語が保健省で喜ばれた。苦しかった。倒れる訳に行かず、今まで考えた事が無い位、働いた。ラオスのプロジェクトでは、パートナーが幸い近くにいたけれど、今回は独りだった。苦しかった。何度も倒れそうになり崩れそうになりながら必死でドナー調整を続けていた。
3.11が起きた。足元から、がらがらと、気力が萎えて行った。翌日出勤し、Madar Janが抱きしめてくれた。Didi jiが、私を見つめた。Mati shahibが声をかけようとしてくれた。私は、立っていられなかった。先輩も同じだった。
でも会議があった。この国のためにここに来た。全うしない訳に行かなかった。全員が、私たちが「ふり」をしていることを知っていた。敢えて、触れずに。ただ、出窓に座り、地べたに座り込む私を、全員が、待ち続けてくれた。立ち上がるのを。立ち上がり、会議に出て行く私をNasirさんも、Didi jiも、一緒に行きながら、支え続けてくれた。今、ここを乗り越えなければ。みんなの力が、私を守った。
日本で、理不尽に叱咤されても、正しい事をした、と思えたのはあの時があったからだ。
6月。地質調査と測量なんて仕事をしに戻った。訳分かんなかった。にわか仕込みのエンジニアとして、サポートとして戻った。葛藤するばかりで、でも、5年間共にし続けたLatifを育て上げるつもりで臨んだ。彼は、大きく成長した。私がいなくても大丈夫だと思うくらいに彼は、必死について来た。私も必死に未知の領域に挑んだ。いつもより危険の多いミッションだったけれど、そんなの、どうでも良かった。
病を得て、日本に戻った時、最初にメールをくれたのは、アフガンのスタッフたちだった。
優しく、強く、逞しく、朗らかな明るさに溢れた、私の弟、私のお兄ちゃん、お姉ちゃん、お母さん。彼の地で起きる事が、彼らのその魂を傷つける。善良な人々は多く、アフガンに善かれと思ってくる人も多い。でも入り過ぎて、横の繋がりが取れず、パズルがきちんとはまっていかないことも多い。けれど大多数の人たちは、今までどこで出会った人たちよりも、この国のために、身銭を削って、命の危険を冒して入って来る。
ドバイからの飛行機で、大概軍人たちと一緒になる。若い子たちの多さに、驚かされる。私たちのミッションより過酷な「最前線」での「戦地」での闘いが彼らには待っている。耐えて行かれるんだろうか。いつもそう思う。ジャララに降りた時、そこは「基地」の中だった。2回目のマザリから帰る時は、様相が変わっていた。行くたびに、治安は悪くなっている事を肌で感じる。
善意で入って来る人たちが、ほんの一握りの人の起こす不祥事で、一気に憎悪の対象になる。
そして、今、カルザイ政権樹立から10年以上が経ち、また米軍の介入から10年が経つ。
人々の期待は裏切られ、悲しみと、怒りが、行き場の無い渦を巻いている。
私の愛する兄弟たちが、般若の形相になって行く事を想像するだけで、心の底から悲しみが湧き上がる。多くの子たちが、自分の生まれる前の、古き良き美しきアフガニスタンを知らない。ソ連侵攻以降30年、祖国は荒廃し、弾痕が今なお市街地に残る。パシュトゥンが支配し、ハザラが召使いとしてまた使われるのが良いとは言わない。だが、Shar-e-Naw公園で、6日後に来るアフガン新年に、戦凧は見られない。The Kite Runnerで描かれていた、凧揚げの光景は、今や昔のものになってしまった。けれどもその祖国を取り戻したいと、彼らは難民キャンプから戻って来た。
その愛を、憎しみに変えるような出来事が、多発し続けている。
あの私を支え、守り続けてくれた彼らが、憎しみに目を光らせ、復讐の鬼と化す事がないよう、祈る事しか出来ない。そんなことになったら、私の心は、裂けてしまう。
戦地でありながら、戦闘機が飛ぶ中でありながら、子どもは無邪気に笑い、遊んでいた。1教室に70人がすし詰めになりながら、必死で学んでいた。3月21日に、新年が来る。自分勝手に攻撃を始め、自分勝手に引いて行く他国の民に言う言葉は無いが、その中の多くの人たちが、善意の人であった事を、信じてほしい。
人が、人たる所以。戦争の狂気に、私の兄弟たちが飲み込まれないように。そこに希望が生まれるのだ。そこに、希望の種が、蒔かれるのだ。収穫の時、刈り取る人が少ないのでは困る。だから踏みとどまり、種をまき続け、実りを待ってほしいのだ。祈り続ける。いつまでも、どこまでも、この心の生きている限り。
- 2012/03/15(木) 23:42:52|
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あの震災から1年が経ちました。
1年、365日。
アフガンで迎えたあの日の事は、忘れられません。昨日、イグナチオ教会の、「東日本大震災一周年にあたり、追悼と再生を願う合同祈祷集会 主催:日本キリスト教協議会/カトリック中央協議会」に参加して来ました。私の友人2人、代母さん、代母さんのお友達と、5人で式典に与りました。
あの2週間前、事務所近くにロケット砲が落ち、改めてプロマネ代理としての責任を感じ、危機管理についても気を引き締め直し、スタッフ全員の命を預かる者として気を張り直した直後。あの日、金曜日。アフガンは週末で、いつもより遅く起きました。mixiの地震情報が目を引いて、ん?と読み始めたところに、先輩から内線が入って「どこでもいいから、とにかくテレビをつけろ。日本が大変な事になってるぞ!」とのことに、慌ててつけたBBC。あの有様と次々と入って来る信じがたいほどの映像、情報。NHK Worldはとにかく「安全情報」や「避難所情報」を各国語で放送していたため、とにかく外国のメディアの情報を必死で追いました。ひとりでいられず、同じ気持ちだった大先輩が私の部屋に来られて、二人でただ何も言えずにテレビを見続けていました。
Skypeが繋がり、本社と連絡が取れたものの、各実家の家族とは連絡が取れず。ようやく母と連絡が取れたのは、アフガン時間の翌朝4時でした。実家が被災地だったJICA職員の方は、じっとしていられないのか、動き回り続けていました。障害のある伯母と独り者の伯父の安否は確認できず...その日はまんじりともせずに過ぎて行きました。
翌日土曜日。アフガンにとっては月曜日。しかも、大事な会議が控えていました。出勤しないわけにいかない。出勤するなり、何も言わず私を迎えてくれたBibiさんはただしっかり抱きしめてくれました。気持ちを奮い、席に着く私にみんなが声をかけようとしてくれました。でも、私にはそれを聞く事が出来ませんでした。傾きかけたプロジェクトのプロマネ代理。その重責を背負うには、悼みの声は、立っていることを難しくしたからです。ひとりのスタッフがそれで傷つきました。その後、暫く経ってから「立っていられないの。今、慰められると、気持ちが折れてしまうの」と伝えて、誤解は溶けましたが、会議に向かう間中、どうしようもなく、なぜ日本にいないのかと、自分を責めて、涙をこらえて。カウンターパートのひとりが「頑張ってくれ。今あなたが頑張ってこの交渉をなんとかしないと、今まで僕らがやって来た事が無駄になる。」と敢えて言ってくれました。保健省との会議を終え、帰って来た私に、Bibiさんが、あったかいカフェオレを出してくれました。砂糖たっぷり入れて。
数日後、伯母とようやく連絡がつき、伯父の無事も確認し。事務所で泣きそうになりながら「私は海外だから大丈夫だからね」と。スタッフ全員の目が、私に注がれ、私が安堵の涙を流していることが分かるとみんなが駆け寄って来ました。
アサイン終了まで、会議、会議、会議、書類の提出、会議、もう数えきれないほどの会議と目の前の難関と。事務所にいる時間がどれくらいあっただろう。帰ってくる度、出窓に座り込んだり、床に座り込んでしまったり。じべたっこさま~、とか言いながら。その最中にも、White Cityはあり、治安状況も悪化している中、気を抜けば倒れそうになり、実際数回倒れながら、ベッドにいると何も出来ない事に苦しみ、結局猛烈に仕事をすることで乗り切ることしかできず。カトリックのSNSに祈りを!と叫び、その声を届け、FBで友達が始めた企画に乗り、メッセージをひたすら翻訳し続け、テゼの集いにカブールからひとり参加し。私が言葉もなく出窓に、床に座っているのを、スタッフたちは言葉もなく、ただ温かく見守り、時に笑わせ、待ち続けてくれました。私から再び笑顔が出るのを。それでもやった、3月生まれの人の誕生日会。心から、笑わせようとみんなが「楽しんだ」日でした。
昨日、走馬灯のように1年の想いが、頭を駆け巡りました。今も、カトリックSNSには、日本への言葉が綴られます。その数は80になろうとしています。他にも、私個人へメールをくれたり、メッセージを書き込んでくれる人もいました。全部を合わせたらきっと100を超えるかもしれません。小さなSNSで。
カンダハールが支援を決めた時、カンダハールに対しても、だけれども「日本と言う国を代表して身体を張って支援しているまいてたちがいるからこその支援」と、友人が言葉をくれました。その言葉が、その後の私を走らせて来ました。閖上に行かなかった。被災地に入らなかった。今も、それを「現場」主義の私が、それをしなかったことを、今も悔しく思います。「日の丸」を背負ってアフガンへ入るために、私は行かなかった。罪滅ぼしのように、Toksyで個人支援を続けて来ました。ひとつの笑顔が、その周りを笑顔にする。その笑顔が、さらにその周りを笑顔にすると信じて。偽善かもしれない。その想いに苦しみながら、それでも続けて行く、と。
昨日、岡田大司教様は、こうおっしゃいました。
「目を背けるのではなく、起こった事を心に刻み、心に留めて祈り続けましょう。」と。
悲しかったから忘れるのではなく、悲しむ人に寄り添わせて頂くこと。共に嘆く事。そして共に、歩み、喜ぶ事。私の悲しみに悲嘆に、呻きに寄り添ってくれたアフガンの同胞たちのように、祈り、寄り添い、その呻きを聞く。目を背けるのではなく、忘れないで心に刻み、その「命」を心に抱きしめて一歩ずつ歩いて行く。その決意を新たにしたいと思います。
震災で折れた十字架は、Risk managementのため、再建されません。昨日鐘楼を見上げながら生かされていること、そのことに、思いを馳せるばかりでした。
- 2012/03/12(月) 14:26:08|
- 祈りとともに|
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正直、これは観るのに勇気がいりました。
が、母から誘われたので観て来ました。
一頭の馬を通じて、人の絆を描いて行く、戦争がもたらす狂気だけではない「繋がり」、また人の持つ「人間らしさ」をも描いて行く、そんな映画です。それが「希望」と言われる所以でしょう。馬の視点で描かれている原書を、もう少し落ち着いたら読んでみようと思うものでもありました。人が「人」である。戦争の狂気に取り憑かれる中、「人が人であるのはなぜか」。その「人の心」を持つ事を許されない中で、持ち続ける事のできる瞬間がある。それによって、人は手を取り合う事が出来る。私たちが決して忘れては行けないのは、その尊さです。
とは言え。忘れては行けない事があります。
この戦争は第一次世界大戦を舞台としていますが、戦争は日々起きていると言う事です。その悲惨さ、惨状から目を背けないでほしい。戦闘シーンは、悲惨きわまりないです。これは、「歴史」であるとともに、現実でもあります。一般人が巻き込まれる部分も描かれます。これも、現実です。
目を背けないでほしい、現実なのです。
私がカブールで体験した「戦争」は、このほんの一部です。それでも、耳から爆発の音が離れる事は、今もありません。あの画面に出て来たキャタピラーより大きな、最新のタンクが走り続けている市内。その上からは、何かあれば発砲されるであろう、機関銃が装備され、360度旋回しながら、引き金に指を掛けた兵士がいます。私たちの毎日は、つねにホルスター銃と、カラシニコフ、A4との共存です。以前は米軍のキャンプまで食料調達に行った事もありました。今はそんなこと、怖くて出来ません。市内の許可されたスーパーで買い物もできました。今は禁止されています。
アフガンだけではありません。
この戦争は、映画の中のことではないのです。技術の発達した現在、その戦争はもっと悲惨な、もっと残酷なものになっている。狂気を失わない美談として、希望として、この「馬」を通じた「人の心」が描かれます。けれど、戦争は今も起きています。この戦争に「関係のない」人は多い。けれども「今も起きている事」として、観て下さい。私たちは「人間」たらねばならない。
苦しかったです。耳を覆い、目を上げられないシーンが多くありました。銃声と、手榴弾の音は、きつかったです。フラッシュバックが起きました。事務所から聞こえた、爆発の音。忘れられません。けれども。その中でも「人」たらねばならない。そうあれば、人は、人として生きる意味を知る。そう、思います。そうある時、垣根を越える事ができるのです。
人を繋ぐもの、それは「人の心」である「良心」と「Respect」です。ある場面で、イギリス兵とドイツ兵が、ワイヤーに絡まった馬を助けるために遭遇する場面で、「もう1本ワイヤーカッターが必要だ」と叫んだ時、そこに5本以上ものワイヤーカッターが宙を舞います。そこに人の「Respect」があります。立場を、国を、すべてを越えて、そこに「Respect」が生まれます。これが、「人の心」です。狂気に踊らされる中、私たちが忘れてはならないもの。私が、この業界で働く上で一番大事にしているものです。それがあれば、真摯に向き合う事が出来ます。
この戦争は、映画の中でだけ起きているものではありません。
多くの兵士が前線に出て、多くの人が、恐怖にさらされています。
惨憺たる有様が、目の前に広がります。でも、これは、「現実なのだ」と戦争を知らない人にも観てほしいです。そしてその狂気が、人を狂わせる。でも人の心を。忘れてはならない人の心を、どうか、お祈りください。友人は、前線でレポートをし続けています。彼の体験に比べたら、私の体験は無に等しい。けれどもそれでも。対岸の火事ではありません。今も、この世界のどこかで起きている悲しい現実です。
人が、人たる所以を。人が、「Respect」を持ち続け、手を取り合う事ができるように。
そう、祈って止みません。
- 2012/03/08(木) 00:43:22|
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今回、心身ともにリハビリを進めるために、「病気になってしまった自分」にショックを受けたこともあり、そっちのリハビリも始めています。いや、病気になるなんて、なるまで思ってなかったし。丈夫だけが取り柄、と思ってたし。
今まで想像以上に緊張しきっていた身体と心と。まあ、多分に昨年は本厄だったし、最初の3ヶ月で色々あり過ぎましたね(苦笑)ようまあ、ロケット砲が落ちた日も、冷静に現場をさばいたわ、自分。仕事上ではこの2年で自分の進路や、コンサルタントとして、初の重圧ある「陰の番長」的ポジションについたり、「現場で、カウンターパートと向き合う」ことを思い切り真剣に取り組み、しっかり耳を傾け、共に苦しみながら、ぶつかりながら、たまには叫び合いになりながら、あるいはビールでつぶされながら(苦笑)やってきました。踊りあり、歌あり、ジョークあり。ま、私のいるところに踊りと歌とジョークがないはずはない(笑)
その一方で日本のODAにおけるコンサルタントの置かれているポジションや、ODAそのもののあり方、真っ正面からぶつかりました。「日の丸を背負う」という覚悟は、日本人である以上しなければいけないし、アフガンでは緑パス(いわゆる外交官パス)のしかも特殊バージョンを持って行く、ということで、それなりに「日本」の援助のあり方を己の行動と言動とで示して行く。個人である以上に「公人」でもある。が、下請けでもある。今もまあ、そこはジレンマですけれどね。
そんなのを抱えながら、そこと向き合う暇もないまま、ただがむしゃらに進み続け、目の前の山積みの課題をひとつひとつ、死にものぐるいで、それこそ公衆衛生から測量まで。呼ばれるところのために、学び続け、働き続けて来た2年間。専門としたい分野とは異なるけれど、これは必ず、「無駄」ではない。身を以てそれを実感する日が必ず来ると思います。ま、身体が壊れない方がおかしいし、心の中のジレンマも、破裂しない方がおかしいところまできていたんでしょうねえ。
コーチングのような形とはちょっと異なりますが、その壊れかけの部分をmendingしようと今、しています。どこで捻れたのか。どこを修正して行けば、自分は楽になるのか。棚卸しですね。もう全部。去年のBitrhday Resolutionは、「削ぎ落し、追求して行く」でした。まさにそんな感じです。
で、久々に、フルマップを描きました。

1時間でA3。久々にがしがし進んだなあ。思い悩む前に、まあ、メインブランチはテーマがあったからなあ。とは言え、溢れ出て来るものです。さすがニューロンをイメージされたマップだけある。気付かなかったものにも気付きました。マインドマッパーMayte、健在でしたわ。前はもっと視覚に訴えるマップを描いて行ったんだけれど、今回は本当に多分1年以上フルマップを描いていなかったので、視覚イメージはちょっと少なかったな。
でも、すっきりしました。うん。これだよね、マップを描いて、きちんと自分を収束させて行く。この作業って本当は忙しいときが大事なのです。フォトリは、まだ身体の機能回復が遅れているので、フルステージは無理だろうけれど、またおいおい、ゆっくりね。
ああ、最後こうやって締められて嬉しいわ。
- 2012/03/07(水) 23:58:22|
- 日々の徒然|
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昨日のハードスケジュールな疲れからか、今日はぐったりと何もせずに過ごしていた。
午後になってもぐったりしたままだったが夕方頃、少しずつだけれども復調傾向で、ペースを落として過ごしていたのだけれども、どうしてもレッスン用に買った鏡を使いたくて、アイソレーションだけ、やってみることにした。
無茶はできないことは分かっているし、今は一曲通しで踊るのも、まだ無理だろう、ということも分かっていたから敢えて基本のアイソレーション。
レッスンDVDの中では、一番アイソレーションを扱っているSandraの1番基礎のDVDを使って、Hip Slide/drop/Mayya/Figure8 「だけ」。ただひたすら、基礎の基礎。組み合わせたり、大きなステップをしたりもしない。マイヤ(外向きの縦の8の字)は力がなくてこの前までは、上から腰で円を縦に描く時、まっすぐ下ろせず、捻れたりして、脊柱起立筋が右側だけ痛かった。スライドは、筋力がなくて、腰が床と平行線を保つ事が出来ず、大腿骨関節にまで負担をかけた。今日は、できた。
まだ、ドロップになると、片足に重心を乗せたままで大臀筋を締めるには、筋力が落ち過ぎていて、速度を上げると、バウンスになる(苦笑)けれど数回はきちんとできた。きちんと大臀筋でロックをかけられた。
でも何よりも嬉しかった。基礎レッスン、大きな動きをすることはまだできないけれど基礎レッスンだけでも1時間できた。汗をかきまくる、ということはまだまだ無理。でも、ひとつひとつのポジションを確かめながら、丁寧にでも、レッスンが出来た。
以前踊っていた時、基礎レッスンができることを、こんなに嬉しいと思っただろうか。振り付けを完成させる事や、音を聞き込むことはしていたけれど、基礎レッスンが出来る事だけでこんなに嬉しいと、思っただろうか。
踊れる。
その第一歩がここにはある。踊れる。それだけで嬉しかった。もちろん、できなくなっていたことはあった。上半身のアイソレーションは、以前からの課題だけれど、今までよりも寧ろマイナスからのスタート。でもそれでも。
踊れる。基礎だけでも、レッスンが出来た。DVD全部の内容をすることは体力上無理だと判断して途中でやめた。けれど、その時、座り込んで、泣きそうになった。踊れる喜び。大丈夫、私の身体はまだ踊る喜びを忘れていない。それどころか、こんなに基礎レッスンが嬉しい。何度も繰り返すうちに、ロックの掛け方を思い出した。マイヤをしながら右の脊柱起立筋が痛まないことに気がついた。
有り難い。こんなに有り難い。踊れることが嬉しい。レッスンできる事が嬉しい。当たり前のようにレッスンできていたちょっと前の私は、こんな当たり前の事がこんなに幸せな事なのだと思わなかった。踊れる。ああ、きっとまた、踊れるようになる。
ひとつひとつまた、ゆっくり、自分の身体の声を聞きながら、基礎を積み上げて行こう。以前のように踊れなくても良い。この喜びは、忘れない。踊れれば良い。有り難かった。きっと大丈夫。きっと、また、一曲通して踊れるようになる。きっとまたあの鼓動の高鳴りを、ラーシャで表現できるようになる。でも、そうならなくてもいい。踊れれば。踊れさえすればそれで良い。
神様、ありがとう。あなたは私に踊る喜びをずっと与え続けてくれた。そして一度そっとそれを取り上げて、また返してくれた。
踊れるんだ。基礎レッスンができる、それだけでいい。この喜びは、何にも変えられない。ベリーダンスを返してくれて、神様、ありがとう。リハビリ頑張ろう。楽しもう。踊ろう。諦めない。この喜びを、忘れない。踊れるだけで良い。踊り続ける。うまくならなくても良い。この身体が許す限り、絶対に私は、Raqs Sharkiを続けて行こう。神様、ありがとう。踊り続けます。あなたへの感謝を込めて。基礎レッスンが出来た、それだけでこんなに嬉しかった。
この「それだけ」に辿り着くまで、長かった。長かった。
有り難う。この喜びを、返してくれて。与えてくれて。
踊れる事は、私にとって、何にも変えられない喜び。
レッスンできるって、なんて幸せなんだろう。嬉しいんだろう。
神様、ありがとう。私は、踊り続けます。この喜びを、忘れずに。
- 2012/03/05(月) 21:33:18|
- ダンス・ダンス!!|
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心身ともに、治療方針が変わり、リハビリも始めてようやく2ヶ月。
ふと気付くと、帰国してから4ヶ月経っていたのか。と、呆然としました。
ここまで来るのに、時間かかったなあ。
今ようやく、わんこの散歩を1時間ほど歩く事ができるようになり、まだ疲れの取れ方は健康だった時に比べて全然だめだめですが、帰国して動けるようになったときとは大分違う。空を見上げる余裕も出て来て、梅を見る余裕も出て来て。身体を治したい、心も戻したい、と焦っていた時と比べて、大分、色々なペースが落ち着きました。
先週水曜日、灰を頂いた直後、再び奈落の底に突き落とされるような想いをしたこともありましたが、這い上がれました。究極を経験していると、強いもんです(笑)まだまだ身体が思うように動かず、悔しくてたまらない。今日も昨日出かけて、本当に嬉しい想いをしたのだけれど、やっぱり(笑)両親が出かけた後、横になりました。ま、仕方ないのだ。そういう体質に、なっちゃったんだもんね。今は仕方ないのだ。
でも明日はまた、着物でお出かけいたします。
少しずつ、少しずつね。
- 2012/03/03(土) 15:23:16|
- 日々の徒然|
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