前回の日記にも書いたのですが、病身にて休養中です。
ようやく、今の治療が一段落つき、新しいステップに進む事に。
ただそれは今の薬の限界が来た事でもあり、これからは
自分の身体と心の力を信じて行かなければいけない、ということでもあります。
もともと強めの薬を使ってきたということは、公衆衛生分野で、
なぜか薬剤系の知識を深めて来た自分でも認識しています。
自分が各国を回る中で症状を抑えるために使って来た薬よりも
はるかに効率も効果も高い、ただしそれだけ強い、ということも。
その薬で抑えられる限界が来て、そこにさらに自分の力が戻って来たからこそ、次に進めるわけですが。
この先は、自分にまだ戻って来ていないけれど残されているはずの力も使いながら、
やっていかなければなりません。
長い闘いになる事は覚悟の上。
でも、自分の身体が戻ってくれば、副作用も減るはず。
こんなに免疫力が下がって、毎週のように風邪をひく事もなくなるはず。
世界中の友人から、同僚や友人づてに私の病を知り、メールが入ります。
心苦しく思う事もあるけれども、有り難いです。
修練闘士の端くれですから。
行くしか、ないでしょう。これからが、本番です。
- 2012/01/13(金) 17:32:01|
- Elle Rugu-the Way towards a Seval|
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2012年 明けましておめでとうございます。
気がつけば8月のEid Al Ftriからお休みしていたのですね。このブログ。
長い事空白でした。
昨年は、急遽帰国するまで、走りに走り通した年と成りました。
1月初頭から3月末までアフガンで過ごし、彼の地での度重なる爆撃と、
故郷の地震と、何が何だか分けが分からず、心が惑う中、
ただひたすらにがむしゃらに、突っ走りました。
日本に戻ってまたアフガンへ入り、慣れない設計関係の調査をして
8月からインドネシア入りして、10月に、実は病が発覚して日本へ強制送還されました。
先輩からは「もう少し早く返してあげれば良かった」と言っていただきましたが、
自分も納得した上での帰国。ひとりで帰国できた事は、あの時だからできたこと。
今でも、そう思っています。
体力もまだまだ回復途上なのですが、生来からの心身の痛みに鈍感な性質は治らず、
出かけてみては倒れ、を繰り返しつつ身体からよくしかられます(笑)
クリスマスの時期を日本で過ごし、代母さんたちに支えられ、
また、そのうちのお一方とわだかまりが3年経ってようやく溶け、
ひとりの友人とも、きちんと話が出来て。
彼女に言い訳も(笑)させることができ、私も気持ちを話す事が出来ました。
このタイミングなのだろう、と、思いながら過ごしています。
自分が愛する日本、沖縄、与論。
新たな出会いもあり、島の先輩方々にも、かわいがっていただき、
三線の素晴らしいお師匠さんにも出会い、辛抱強く、心を支えていただいています。
大好きな着物を通じて、新たなご縁もいただきました。
今年、どんな年になるのか、自分も世界も全く分かりません。
けれども、自分に正直に、己の愛するものに忠実に、
頂いたご縁を大切にし続けて育みながら
正しいと思う事を正しいと言えるように、生きて行きたいと思います。
宝玉やてぃん 磨かにば錆びす
朝夕肝磨ち 浮世渡ら
成しば何事ん 成ゆる事やしが
成さぬ由からどぅ 成らぬ定み
(宝玉とて、磨かなければ錆びるもの。
だからこそ朝夕、己の心を磨き、この浮き世を渡って行くのです。
成そうとすれば何事とて成るようになるものですが
成そうとしないならば、それは成らない定めとなっているのです)
世界に平和が戻りますように。
主のみ心が、なりますように。
- 2012/01/02(月) 20:57:58|
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今日はラマダン月(ヒジュラ暦9月)の最後の日。
ようするに、断食をしなければいけない月の最後の日ということになる。
明日からはヒジュラ暦10月。
今日は日が落ちてから、ずっとあちこちでポンポン花火の音がする。
その音に混じってあちこちでクルアーンの朗読が聞こえて来る。
音につられて外を見ると、本当に至る所で花火があがっている。
少なく見ても10カ所くらいで、夜明けとともに来るラマダン明けを祝い始めている。
昨日はえいやっと気持ちを振り起こして、Pasarayaという近くのデパートに出かけてみた。
そこで聞こえて来たのは、なんと、Amir Diabの(フランコ・アラブの超有名歌手)歌。
この前保健省の総局長の部屋で、かかっていたテレビのBGMもAmir DiabのTamali Ma'akだった。
Tamali Ma'ak はAmir Diabの大ヒット曲で、私も大好きな曲の一つだけれども、
まさかインドネシアで聞くとは思わなかった。
あちこちで、アラブ圏のイスラムの言葉をたくさん聞くけれども。
ああ、やっぱりクルアーンがアラビア語なだけに、アラブ圏の文化も入って来ているのだなあ。
そして、こうして今日、ラマダン月が終わるのをこうして祝っているのを見ると、
インドネシアは本当にイスラームの国なのだなあということを実感する。
美しいアザーンを聞くと、イスラームの人間でなくても心が洗われる。
どの信仰でも「祈り」というのは本当に人の心を神へ、大いなる存在へと向けて行くのだと、
このラマダン月にこの国にいて、思うのです。
明日はイード・アル・フトリ。この国の、そしてすべてのイスラームの人々へ、
Eid Mubarak!
- 2011/08/29(月) 23:04:08|
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調弦のことを、ウチナーグチで「チンダミ」という。
三線は、歌う人の声の高さに合わせて弦をチンダミする。楽典風に言うと、原則として男弦、女減は8度、男弦と中弦は4度、という関係さえ保っていれば良いので、「本調子、何番で」というチンダミの仕方をする。
楽器に人が合わせるのではなく、自分に楽器を合わせる、というなんとも私にとっては新しい考え方で、初めてそれをあんまーから聞いた時にはびっくりした。そこに、島人のおおらかさ、優しさがあるような気もした。
私の母方は与論、父は半分が本島(沖縄)。自分の魂に「息」を吹き込みたくて、島の魂をよみがえらせたくて、というより、うずうず疼いているそれに気づいてしまって、門を叩いた。そうしたら、もうそれどころじゃなく、理屈関係なく、この楽器にであったことは運命だったんだ。そう思えるほどの引き寄せられ方だった。
それからと言うもの、ほぼ毎日三線に触り、上達を喜びながらもだめなところで悩み、また続けている。
そんな中、自分の唄を歌いたいと心から願うようになっている。もう数曲は毎日弾いているので、暗譜しているけれども、もっと弾きたい。もっと知りたい。もっと、もっと、がどんどん膨らんで来る。もっと古典を、民謡を弾きたい。島の肝に触れたい。感じたい。唄いたい。自分の中に眠っているDNAを呼び起こしてしまいたい。魂のそこから震えたい。まだまだだけど、もっともっともっと弾き続けて生きたい。
琉球、奄美、という大和から離れたところを、大和に生まれ育ってしまった私は知らない。沖縄口も、与論口も分からない。まさに島人の宝、を地でいく。しかも住んでさえいない。母方の祖父の家は、第二尚氏の分流だということを誇りにしていたらしい。そんなのも全然分からない。自分から遠い、自分の「源」。それがこの音の中にある。理屈じゃない、そこにある。
祖父は私に教えることは無かったから、そこで「継がれるもの」は途絶えてしまって、「新しく始めるもの」になって「習い事」になっている。でも息をするように、自然に私にとってはそこにある。下手かもしれないけど、弾くことが当たり前になりつつある。
だから、三線に触れると言うことは理屈抜きに私の一部なのだ。今も、そして本当はずっと昔、じいちゃんが弾いていた頃から。
すげー...。
- 2011/08/27(土) 00:07:26|
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インドネシアで日本人は医療施設にかかる時にどうしているのか?
結構疑問ですよね。外国に行くとどこに係っていいのか、ということを考えます。私はラオスで仕方なく、とはいえ日本で歯科技工士の資格を取った(!?)方が院長をしている歯科にかかり、親知らずにたまった膿を取ってもらいましたが、自分自身がセタ病院に係ることはあまり想定しませんでした...。
これって援助の穴なんですよね。技術支援をしていても実際にそこにかかれるレベルかどうかということは非常に微妙。ということは往々にしてあるということです。
さて、で、このインドネシアですが。邦人の場合、インドネシアで日本人が医療行為をすることが認められていないそう(要医療法確認)で、「アドバイザー」として指示を出す、というところまでが限度になります。とはいえ日本人医師が常駐し、インドネシアのスタッフに指示を出して診療行為を行わせる、データを取らせる、というだけでも大きな安心感のようで、ジャカルタでは、メディカロカ内の日本人医療相談所をはじめ、タケノコ診療所、ポンドイック・インターの診療所、といくつか係るところは決まっているのだそうです。そもそも海外医療保険がある場合、ある程度以上になると、医療水準の高い、シンガポールに行ってしまった方が費用が安く済むから(渡航費、滞在費まで面倒を見てくれるらしい)と、海外に出てしまうケースも多いとか。がーん。
現在、インドネシアの医療技術の水準は少しずつ上がって来ており、心疾患などで飛行機に乗る方が危ないケースもあり、多少言葉が通じなくとも現地の病院(もちろん大きな)で診てもらった方が安心な場合もあるとのことなのですが、基本的に「言葉が通じない」ということが大きなネックになっているとか。
また、当地の富裕層(5%くらい)は、医療ツーリズム、ということでやっぱりマレーシア、シンガポールに行ってしまうということも。そんなにSeriousな病気でなかったとしても。年間30億ドルくらいはそれで外にお金が流れているとか。凄い量です。
で、医療保険はどうなっているのかというと、「医療保険」に入るという気がある人がそもそも少ないようです。貧困者救済のためのJAMKESMASという保険がカバーする範囲はきわめて限られており、大事な時に効かないとか(要保険範囲確認)。JAMSOSTEKという労働者用の保険もしかり。無保険者が全体の40%以上だという話。現在出始めている中間層もいるそうですが、その辺は無保険なのだとか。ちょっと耳にした話では、JAMSOSTEKもあまり意味が無いらしい。
...いやーそうしたら、そう言う保険をかけるくらいなら自費で海外行っちゃうよな〜、という気がしないでもないこの1週間です。
もうちょっとちゃんとしたデータが手に入ると嬉しいのだけれども、早く保健省とBPSに行きたい、と思う今日この頃。明後日はBekasiの工業団地に朝6時出発です。ちゃんちゃん。
- 2011/08/15(月) 01:14:56|
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フィリピンに行けば、タガログではなくイロカノ語で。
ラオスに行けば、ラオ語で。
ホンジュラスでまでスペイン語で。
挙げ句の果てに、アフガニスタンでもダリ語で。
行く先々で各地の地元民だと思われるこの5年間。
...インドネシアはアジアですから、当然あるだろうと思っておりました。
そうしたら、とある地元の日本人会の有力者との会食の際に、名刺を手渡したとき
すっごい怪訝な顔をして私と名刺を見比べて、ヒトコト。
「まいてさんは...インドネシアに長くご滞在なんですかね?」
どういう意味か?と思っていると「いや〜〜、あまりにもインドネシア人みたいなもので、長くいらしていて馴染んでいるのかと...」あ〜う〜やっぱり。
40年も居る重鎮にそう言われると、やっぱりそうなのねん...。
帰り、車に乗り込む私の背中で、
「ほら見ぃ、あの格好といい、あの顔立ちといい、インドネシア人と変わらんな、はっはっは」
と笑っておられる、重鎮のお声が聞こえておりました...。
- 2011/08/15(月) 00:59:23|
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8月7日より、インドネシアに来ております。現在ジャカルタです。
暑いのではないかと予想していたのですが。予想外に涼しいです。
日本の気温なんかより多分ずっと涼しいです。驚きました。
それより驚いたのは、渋滞のひどさ。
現在鋭意ラマダン中なインドネシアでは、5時の終業時間を迎えると、6時のイフタール(断食明け)のアザーン(モスクから聞こえる6時の断食明けを知らせる祈りの声)をめがけて一斉に帰宅ラッシュが始まります。それが大通りだけならまだしも、裏通りまでいっぱいの車、バイク、車、バイク!!!
1度、近くのテレコム会社まで20分で行ったはいいのですが、帰り、ちょうど5時過ぎにはまってしまって...オフィスに帰り着いたのが6時半。みなさん外で煙草を吸いながら待っていらした、と言うことがありました。
...すごすぎです。
何をするにも、どこに行くにも、1時間は見なければならない!
これは本当に不便極まりありません...やれやれ。
- 2011/08/13(土) 04:25:53|
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ここ最近、「原点に戻る」が続いている。
今日も実は非常に素晴らしい私の原点を表現する機会があった。にもかかわらず、それはどうやら失敗に終わったのではないかと思う。自分を見つめる作業が足りなかったな、と今ゆっくり振り返りながら思う。私のメンターにもつい先日「小事を見て大事を忘れる事なかれ」とたしなめられたばかりだったと言うのに。
最近は仕事というものに追われて、自分の「芯」が疎かになっていたからだろう。目の前の仕事、コンサルとしての仕事の中に感じる限界と理不尽さにかまけて、自分の「大義名分」をどこかにすっ飛ばしてしまっていたのではないかと、深く感じている。
私がこの業界に入ったのはただ1つの理由から。
「ひとりでも多くの子どもが、子どもらしく笑える世界をつくりたい。」そして、「世界中の子どもやできごとを、対岸の火事ではなく自分のこととして捉える世界を作りたい。そしてそのためには、隗より始めよ、である」ということだ。でも仕事をするうちに後者の方が大きくなって来てしまっていた。「なんでこんなに、世界の出来事を対岸の火事にしか見られないの?」とか、「研究材料じゃなくて、本当にそこにある出来事なのに」とか。だからこそ「専門家と実務者」の橋渡しの人間でありたいと願って来たのだ。
でもそもそもの大本はここにある。
ひとりでも多くの子どもが、子どもらしく笑える世界を創りたい。
タンザニアで選挙の宣伝をしていた子どもたち。アフガンで渋滞の車めがけて、祝福の煙を持ってくる子どもたち。フィリピンで、ジプニーが停まるたびに、何か売ろうとして走ってくる子どもたち。それとは対照的な、アフガンの学校を訪れた時に、わーっと寄って来る子どもたちの無邪気な目、顔。子どもらしい好奇心むきだしの表情。
仕事に追われて、私はそういうものをひとつひとつ、心の中に刻んでいたにもかかわらず、うまく表すことができなかった。それはそれでもう過ぎたことなので、良いのだけれど、こうして自分の原点を思い出したことの方が私に取ってはショックだった。
今までの自分を振り返ると、それを目の前にちゃんと置いてそれと向き合って走って来ただろうか?
この5年を振り返った。
チャンスがあるなら、それを活かして行こう。でも、それが手からすり抜けたとしても。これから先この私の大義名分を忘れること無く行こう。ああ、新たな明日が始まる。
この世界を少しでも良くするために。
この魂を少しでも、響かせるために。曇りを取り除き、生きたい。
- 2011/07/25(月) 21:22:02|
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原点回帰の1つ、それが自分の魂、DNAの叫びであった、琉球回帰。
いや、厳密に言うと沖縄本島や離島ではなくどちらかというと奄美群島が半分以上を占めているのだが。
私の50%は与論島、25%は本島、25%は和歌山。
ずうっっと、心の中には島唄が鳴り響いている。聞かないふりをするのは無理な話。私の家は、音楽以外の文化は継承していない。それでもカチャーシーや島唄がリビングに普通になっている、不思議な家だった。祖母とは標準語で話をしたので与論の言葉はまったくしらない。父方の祖父に至っては顔も知らないのでウチナーグチなど知る由もない。両親はそれを受け継ぐ、語り伝えるつもりなんてまったくなかった。
けれど不思議なもので、それは自分の魂に刻まれているのだろう。踊りの下手な母がカチャーシーがかかればこねり手をする。自分の父のことなど話したことも無い父が、なぜか沖縄民謡を好む。それを受け継いでいないはずが無く、あのリズムを聞くと身体がうずくのだ。
色々と「時」があることは分かっていたので、その時が熟すのを待っていたら、遂にやってきて、イグナチの近くに、三線教室があることを知った。しかもちょうど良く日曜日だという!これはやらない手は無い。と、先週から先生の家と、今日は全体練習に参加して来た。
先週、先生が目の前で唐船ドーイと二見情話を弾き語りしてくださった。背筋がぞわっとした。ああ、これだ。これが肝(ちむ)に染みる音(うとぅ)だと、体中がぞくぞくした。これだ、これを弾きたかった。そう思うと、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
弦楽器は大の苦手の私が、譜の読み方を1日で覚え、家に帰ってから指の皮が剥けるほど練習した。母方の祖父は自分で三線を作って戦後弾いていたそうだ。おじいちゃんと弾きたかった、と思った。1週間やったかいあって、大好きなてぃんさぐぬ花と安里屋ユンタはテンポで弾けるようになった。そうすると、リビングから、母の「またはーりぬつんだらかぬしゃまよ」という間の手が聞こえて来た。
ただ弾ければ良いんじゃない、肝に染みる音を弾きたい。そのためには、ちゃんとした音を出せるようにならなければ、良い姿勢で弾かなければ。自分のDNAと今までの人生総動員して弾かなければ。
...この前も同僚に言われたけど、
「職業、間違ったんじゃないの?」
...若干そう思うかも(笑)というのは冗談で、何が天職なのかはその時その時で主に導かれるもの。一生懸命何事にも生きて行こうと、三線を弾きながら思う。
自分の原点はここにあったのだ。ベリーダンスの「これをやらなければ」というものに似たそしてさらに奥深い自分の「源」、「魂」を揺さぶる原点、私のルーツがここにあったのだ。その時その時の自分の気持ちが、三線に現れる。だから「朝夕肝磨ち 浮世渡ら」なのだ。
生半可な音は出したくない。一生懸命練習してこそ、楽しんで弾くことができる。人生もそうだ。一生懸命生きるからこそ、その時その時を楽しむことができる。私の音色は私にしか出せない。私のストーリーは私にしか紡げない。私の踊りは、私にしか踊れない。
素晴らしいなあ...。
- 2011/07/24(日) 22:02:56|
- 日々の徒然|
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7月が始まった。後半戦突入、といったところか。
Birthday Resolutionは「そぎ落とし、追い求める」。削ぎ落としは物質的に大分行われているが、削ぎ落とされることによって大分自分のたいせつにしたいものが見えてきつつある。
「この服は着ると元気になる」
「この本はずっと何度でも読みたい」
その中で、そぎ落とされない「コア」がある。そのコアに「至った」道筋と言うのがやっぱりあり、それを形作るためにずっと続いて来たものがある。それを今発掘中。わくわくする。
毎朝早起きし、Morning Papersを書き、朝ヨガをし、シャワーを浴びてから1日を始める。
そしてそこから何がしたいのか、だ。そこで「原点回帰」というメンターとの言葉が浮かんで来た。
私の中に、うずいている「原点」がたくさんある。
それを掘り起こし、でーん、と生活の中心に据えてみようと思うのだ。
わくわく。
さて、どんな自分に出会えるだろうか。
- 2011/07/02(土) 23:23:08|
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